龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 151


つまるところ、国民のメディア情報に対する分別能力を高めていかないことには本当の社会改革は不可能

である。今回の小沢一郎問題でそのことがよくわかった。

一連の小沢捜査ではっきりしていることは、胆沢ダムの工事で下請け受注していた水谷建設の会社体質だ

けである。水谷建設は政治家に金をばら撒くための資金を捻出するために脱税を重ね、元会長は逮捕され

現在収監されている。よって小沢サイドにも幾ばくかの金が渡っていたであろうことは誰もが考えること

であろう。しかし胆沢ダムの件について言えば、具体的な証言が刑務所に収監中の人間からだけである事

はかなり信憑性に疑問が感じられるものである。作り話を強要されたとまでは言えなくとも、何らかの取

引があったと考える方が自然ではないのか。

そもそも、胆沢ダムのような超大型の公共工事であればゼネコン各社が元請け企業を中心にして受注調整

が行われることは極めて合理的であると思われる。それぞれの会社によって得意分野が異なるのであるか

ら、工事が円滑に行われるように割り振りされる必要性がある。胆沢ダムの場合にはその役割を鹿島が担

っていたのであろう。それ自体は談合と言うべきではない。ここからが問題である。冷静によく考えてい

ただきたいのであるが、下請け企業の選定に政治家を介入させることがゼネコンにとって何のメリットが

あるのであろうか。政治家は工事についてはまったくの素人である。そのような素人に、あの下請けを使

えとか、あるいは使うなと口出しされれば元請けにとってはやり難いことこの上ないのは当然である。や

り難いだけではない。そこに謝礼が発生すれば、当然、贈収賄やあっせん収賄罪の対象となるからゼネコ

ンの担当者にとってはあまりに危険すぎる選択である。発覚すれば自分が逮捕されるだけでなく、会社そ

のものも倒産に追い込まれる可能性が高い。そうであれば、小沢一郎という政治家が、ゼネコンにそのよ

うな死の川を渡らせるだけの絶対的な力を持っていなければならないことになる。

この点について新聞社の論調は、絶大な影響力とか天の声などイメージだけの抽象的な言説を弄している

が、まったく説得力がない。小沢に対する悪のイメージを鬼に投げつける豆のごとく撒き散らしているだ

けではないのか。当時の民主党は野党である。いくら実力者であるからといっても小沢の一声で決まるも

のであるわけがない。しかしである。ここからが微妙なところである。

小沢サイドの機嫌を損ねると下請けの対象から外されるとそれとなく思わせることは可能なのでないであ

ろうか。実際に水谷建設の元会長は脱税事件で逮捕される直前の朝日新聞社のインタビューに、献金が多

い理由について、政治家とつきあいをしておかないとあそこの会社はつぶれるぞなどと言われて邪魔をさ

れるからだと答えていたようである。私はそれは本音だと思うし、今回の小沢疑惑の本質的な要因なので

はないかと思う。小沢の秘書である大久保隆規が高級料亭で水谷建設幹部から接待を受けていたことは事

実であるから、力の弱い下請けの不安感につけ込むような構図はあったのかも知れない。あるいは大久保

隆規や石川知裕が親分である“小沢一郎”という名前の威光と幻想を最大限に利用しようとした可能性は

あったと思われる。

もしそうであれば小沢に監督責任はあるし、その他下請けのゼネコン各社から多額の裏金が小沢の下に集

まっていてもおかしくはないということになる。しかし小沢の関与の度合いも含めて考えると、やはり小

沢の収賄やあっせん収賄の立件はかなりハードルが高かったと言えるであろう。私自身の感想を言えば、

今回の捜査は検察がかなり強引に無理やり進めていたもので元から検察の負け戦だったような気がする。

やはり検察組織があせって政治的に動くという邪道が裏目に出た結果なのではないのか。さらに言えば、

その他のことはわからないが今回の疑惑の争点となった水谷建設から小沢サイドに対する1億円の裏献金

の事実自体がなかったように思えてならない。少なくとも私は小沢が政治資金の透明性を保ち、浄化させ

なければならないと考えている気持は他のどの政治家よりも強いと見ている。

各新聞社や雑誌は、政治資金収支報告不記載の違法性だけをことさら大きく取り上げて小沢がゼネコンか

ら裏献金を常態的に受け取っていたかのような誘導をしていることはかなり問題が大きいと言えるのでは

ないのか。不起訴であっても疑惑が完全に解明されたとは言えないから道義的な責任がある、現に世論は

圧倒的に小沢幹事長の辞任を望んでいるなどと言うが、そのような疑惑のイメージを新聞社が中心となっ

て大衆に植え付けている結果ではないのか。一時期、鈴木宗男が希代の悪人のようにマスコミ報道されて

いたが、今、果たして何パーセントの国民が彼が何を悪いことをしたのかと聞かれて正しく答えられるで

あろうか。そこにあるのは漠とした“イメージ操作”だけではないのか。小沢が清廉潔白であるとは言わ

ないがマスコミの報道は実像とかなりかけ離れているように思える。むしろ道義的な責任を言うのであれ

ば私は検察とマスコミの方がよほど大きいと思われる。日本の改革を妨げ、国会の中身を“政治と金”の

問題一色で空疎化させ、国民生活をマスコミ権力と司法権力のパワーゲームの犠牲にした。さあ、謝って

いただきたい。

と、こういうことを書くと日本と言う国はヒステリックな反応がどこからともなく湧き上がって結局、検

察審査会で小沢は起訴され、有罪にされてしまうのだろうな。日本はそういう国である。私は小沢の肩を

持つつもりはない。問題の本質を隠ぺいしようとする正義のあり方や、大衆の認識能力を低きに抑えて君

臨するこの国の管理構造を問題にしているのである。わからない人間には何を言ってもわからないことは

わかっている。わかる人間が一人でも増えて欲しい。そういう気持ちで私は書いている。