龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

説明責任の問題

“説明責任”という言葉は、マスコミが発明した造語だと思われるが、“自己責任”と共に何ともいやな語感がする。自己責任とは、責任の所在が本人に帰するものであることを明示する言葉であるが、用法的には、その人を“突き放す”ために使われることが多い。同様に、説明責任は、単に説明の責任ではなく、実際的には誰かを“追い詰める”ための言葉である。言葉そのものに、政治的な方向性と思惑が内在している。そこには策略的な響きがある。だから我々は説明責任という言葉を分析して、その中身をよく検証する必要がある。私が思うに、“説明責任”という言葉の問題は、その一方通行性と権威主義にあるのではないか。
小沢一郎氏の政治資金問題で、検察審査会が起訴相当と議決した犯罪事実とは政治資金収支報告書への虚偽記載である。しかし検察は虚偽記載に犯罪としての悪質性が薄いと判断したからこそ2度にもわたって不起訴処分としたのである。その上で改めて、虚偽記載の事実を処罰するのであれば、犯罪としての悪質性が見落とされているか見過ごされているかが証明されなければならない。しかし小沢氏のケースはそうではない。虚偽記載の事実ではなく、小沢氏の説明責任が処罰の対象となっている。土地購入における4億円なりの金の出所について、検察は収賄の可能性をも含めて徹底的に捜査し嫌疑不十分で不起訴としたが、小沢氏の供述内容は、不自然かつ不合理だから、全ての国民に対して納得がいくような説明がなされなければならない、というものだ。それが、“市民感覚”だと言われれば確かにそうなのかも知れない。また全ての被疑者もしくは被告人は、自己に不利益な供述を強要されない当然の権利として、黙秘権があるが、政治家の金と政治の問題については、高度な倫理が要求されるべきであるから例外扱いだという見方もあるであろう。それらの見解を前提として考えてみても、今、なぜ、小沢一郎が標的であり続けなければならないのか。政治資金収支報告書への虚偽記載や記載ミス、出所不明の金など、政治の世界にはいくらでもあることであろう。仮に、10人の疑わしい政治家がいて、それぞれに10件の不正疑惑があるとする。その内、誰の、どの疑惑を摘発するかについては検察組織の職務権限だから、その選定についてまでは我々国民が口を差し挟むことは出来ない。検察が捜査権を恣意的に発動して、政治介入することは極めて問題であるが、それは別の次元の判断である。あの捜査は国策で、この捜査は正義だ、などと国民の一人一人がいくら言ったところで切りが無いし、あまり意味も無い。しかし小沢氏の問題は検察が不起訴にしたものを、形式的には一般市民による検察審査会への申し立てで強制起訴となったが、実態的にはマスコミ主導による“追い込み”である。
そのマスコミ主導による追い込みに、政治的な思惑がないと言えるであろうか。ないと言い切る人は、人それぞれに考えがあるとは言っても、あまりに能天気すぎるのではないのか。各新聞社の論調は自分たちで盛んに反小沢を煽ってきておきながら、まるで人事のように政界の小沢派と反小沢派の対立を揶揄している。その揶揄自体が小沢切りを促す誘導であることは明らかであり、一政治家の問題ではなく、日本の民主主義を汚染するマスコミの政治介入行為であると言える。世間一般的にはこのような私の主張に対して、腑に落ちない思いの人がほとんどだと思われるが、それは日本の世論がマスコミ洗脳の渦に巻き込まれている結果であろう。
よく考えていただきたいが、仮に私のような一般人が政治家の政治と金に関して何らかの不正疑惑を発見したとする。その情報をどこかのマスコミに持ち込んで、その政治家の疑惑を追及し、“説明責任”を訴えて欲しいとお願いすれば果たして採用されるであろうか。おそらくはその情報の社会的価値や重大性ではなく、その対象となる政治家が小沢一郎のように、新聞社やTV放送局などの既得権益層にとって有害であると目されていれば歓迎される可能性が高いが、そうでなければ一笑に付されるだけであろう。情報提供者を馬鹿にしたような高飛車な態度で、もみ消されることになるのは目に見えている。もちろんあまり露骨に偏った紙面構成や放送内容になり過ぎると、マスコミは読者や視聴者に不信感を持たれ、社会に与える影響力が低下する結果になることを恐れるから、バランス的にほんの一時だけ小さく取り上げることはあるかも知れない。しかしこれで本当にマスコミは社会の公器としての公益性が保たれていると言えるだろうか。要するに、マスコミが濫用する説明責任という言葉は、精神科医が被告を鑑定する際の、“責任能力”の有無によく似た性質を持っている。マスコミ機関でなければ履行を迫れない権威主義的な文言である。我々一般大衆は騙されているのだ。説明責任という言葉を日々目にし、聞かされ続けれている内に、それが大衆の政治権力に対する民主主義の活力のように錯覚してしまうことになる。しかし現実的には大衆は特定の権力者や特定の説明責任を選択することが許されない。検察審査会への申し立ては本来、検察権力への監視のためにあるのであり無実の人間に疑わしさの濡れ衣を被せ続けるための制度ではないはずだ。所詮我々一般人は、マスコミが誘導する情報に従って、ターゲットとなった政治家に説明責任があると思うか、ないと思うかの質問に答えることしかできないのである。マスコミは政治介入を正当化するために、小沢氏には説明責任があると考える人が7割を超しているなどの報道を繰り返しているが、そのような世論調査はマスコミの恣意的な政治介入に利用しているだけで本当の民主主義とは言えない性質のものである。このようなマスコミファッショをいつまでも許し続けてよいものであろうか。政治家もマスコミも国民を馬鹿にし過ぎている。マスコミの論調には距離を取って、多くの人にはよく考えていただきたいと思う。マスコミに登場する知識人は、揃いも揃って口を合わせたように何の疑問も無く、説明責任への圧力に同調する。私の目にはそのような知識人、言論人の姿は、餌をもらうために水面から顔を出して口を真ん丸く開けている鯉のようにしか見えない。一連のマスコミバッシングに対して小沢一郎の対応は特に投げ槍になっているようにも、腐っているようにも見えない。中々出来ることではないと思う。この態度能力一つをとって見ても、私には今の政界で総理大臣の資質がある人間は小沢一郎しかいないような気がしてならない。