龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ギャンブル論 2

競輪の話しはこれ位にして、私なりのギャンブル論を述べさせていただくことにする。全てのギャンブルは、のめり込んでいく過程で、単なる確率と予想の偶然性から外れてしまって、内面の心理状態だけの問題に移行してゆくことになる。具体的には儲けようという当初の目論見が、損した分を取り戻そうという衝動と表裏一体となって深みにはまっていくということである。これは株などでも同様だと思われるが、損した分を取り戻すことは事実上、不可能である。株では“損切り”という言葉が使われるが、一つの銘柄で損を確定させて別の銘柄で新たな勝負を開始しトータル的にいくらプラスが出たか、あるいはマイナスになったかで投資元金に対する利回りが量られる。ところがプロはともかくとして素人の個人投資家が株の売買で何度も損切りを重ねながらトータルでプラスを出せるような人間はおそらく一人もいないのではないのか。ましてやパチンコや競馬、競輪などのギャンブルは株の銘柄のような区切りが存在しない。せいぜい日を変えて別の日に出直してくることぐらいが区切りのようなものだが、日を変えればツキが好くなるという期待はギャンブルをする人間特有の楽観的な幻想に過ぎない。確かなことはその時々の内面の心理状態に左右されているということだけだから、単に熱くなったり虚しく感じたりする主観的な思い込みの世界に損切りに相当するような計数管理は到底、不可能だ。不可能であるだけでなく損得の計数概念を持つこと自体が無意味である。ただひたすら、のんべりだらりと損を重ね、そして損を取り戻そうとしてより一層、損を大きくしてしまう悪循環の心理構造が存在するだけである。だから要するにギャンブルにおいては絶対に損した分は取り戻せないのである。新たな勝負に挑んでもし勝てば、一時的に過去の損の幾分かを取り戻したような気になるが、それでも過去に負けたという事実と現時点で負け越しているという現状は変えようがない。今後、負けなしに勝ち続けることなど絶対に有り得ないから、損を取り戻そうと決心した時点で、より損が大きくなる道に進んだことを理解する必要性がある。私はそれがギャンブルという名の、この世の一つの真理だと思う。それではギャンブルにどのように向き合えばよいのであろうか。あるいはこの世にギャンブルは不要なのであろうか。
結論的には私はこう思うのである。そもそも最初からギャンブルで儲けようと考えなければよいのである。儲けようという気持ちが結果的に損を大きくさせる元凶なのだ。それがギャンブルの本質であろう。だから逆に言えば、儲けようという気持ちなしに時間を潰せて楽しめるギャンブルだけが、社会に存在価値のあるギャンブルで、それ以外のギャンブルは社会悪だと私は思う。最近、デフレの影響でパチンコ業界にも1円パチンコなるものが増えてきているようである。その傾向はパチンコ屋が厳しい経営環境の中で生き残ってゆくための不可避的な戦略であると同時に、不景気のおかげでギャンブルの社会悪が淘汰され改善されてきた結果でもあると私は思う。競輪場で1レースに500円ずつ賭けて、競輪の生の迫力を満喫することは自分で言うのも何だけど健全で賢い金の使い方だと考える。しかし、私がもし今後、本気で競輪で儲けてやろうと少しでも色気をだせば、20万や30万ぐらいの金はあっという間に消えてしまうであろう。そして通算で100万円ぐらい負け超してどうしようもないほど首が回らなくなるまで、足を洗えないような地獄に落ち込んでしまう可能性は十二分にある。それがギャンブルというものである。1レースに500円の“観戦料”だけで儲けを期待せずに楽しんでいる間は絶対に安全である。選手たちは本気で体を張って真剣勝負をしているわけであるし、見に来ている観客の少なさから考えても、1レース500円の観戦料は決して高くはない。競輪はそういう楽しみ方が出来るギャンブルであると思われる。
さて、話しはまた変わるが、昨年よりカジノ合法化案についての議論が出てきているようだ。大阪の橋下知事がカジノを大阪へ積極的に誘致するだけならまだしも、「小さい頃からギャンブルを積み重ねて、全国民を勝負師にする」などととんでもない発言をして物議を醸した。橋下知事という人物は若さゆえなのか、大胆な所は評価できるが、ちょっと社会感覚がずれていると言うか、はっきり言って司法界出身の世間知らずの傲慢さが今だ残っているように私には見受けられる。全国民を勝負師にするなどと本当に本気で言ったのであれば、問題発言というよりも単なる馬鹿発言だ。一口にカジノと言っても何をモデルにしているのかわからないが、一般的には庶民が小金で遊べるような空間ではないはずである。確かに雇用促進と経済波及の効果はあるのかも知れないが、それは一晩で数千万円や数億円の金が動くほど多くの客が湯水のように金を使ってくれての話しである。私のような貧乏人ばかりが挙って、競輪の1レースに500円ずつ賭けるような遊び方では本格的なカジノ経営は成り立たないであろうし、またゲームセンターでもあるまいしそのような、せこい賭け方が許される雰囲気はカジノには有り得ないはずだ。豪勢でなければカジノとは呼べない。最低でも数万円、最初にチップを購入してそれがなくなればどんどんと買い足していくようなギャンブルがカジノである。だから一日当たりの平均客単価は少なく見積もっても7~8万円ぐらいが想定されることになるのではないのか。そのようなカジノが、たとえ将来、大阪に出来たところで世界中の金持ちが集まるほど斬新かつ画期的で魅力のある観光エリアになるならともかく、日本(大阪)人相手に商売の採算を考えているようではとてもではないが、たとえ立ち上げたところで失敗するのは目に見えているような気がする。それこそ子供の学校の給食費すら払えないような人間が、物珍しさだけで有り金を全部すってしまった挙句に崩壊する家庭が今以上に急増するだけで終わってしまうことになるのではないのか。とんでもない話である。
しかし日本が今後、地方分権の方向性を強力に推し進めていく必要性があることについては私は賛成である。行政区分を小さくして地方にどんどんと権限委譲してゆかなければ日本は絶対に変わり得ない。そのための自主財源としてカジノが手っ取り早いと考える短絡的な早計さは分からないでもない。だからカジノ法案について私は条件付で賛成である。その条件とはカジノに入場出来る人間の経済力下限を設けることである。具体的には年収1500万円以上、もしくは流動性の高い、常時引き出し可能な預貯金残高1000万円以上の証明書がある人間のみカジノで遊べる許可証を発行することとする。預貯金残高については当然、変動があるので3ヶ月ごとに更新手続きが必要であるとする。
金に余裕のない多数の人間がカジノで遊ぶようになると、今以上にろくでもない世の中になりそうで大変、危惧される。“自己責任”などとつまらない言い逃れはしないでいただきたいものだ。貧乏人から主に金を巻き上げるような社会システムに私は憎悪を感じるのだ。為政者がどうしてもカジノを作りたいというのであれば、一部の金持ちだけを対象にすればよいではないか。富裕層の金がじゃぶじゃぶと社会に流れれば間違いなく世の中は良い方向に向かうはずである。金持ちだけが特権階級的にカジノで遊べるようになれば、彼らのセレブとしての虚栄心は大いに満たされるはずであるし、富裕層の金が流れて雇用や経済波及につながるのだから一石二鳥ではないか。それがある意味において資本主義社会の本来の姿であると言えるはずである。ところが日本では経済的弱者しか利用しない消費者金融の借り入れ上限を年収の3分の1に設定するといったような、果たして弱者保護なのか、悪者としての消費者金融いじめパフォーマンスなのか、よくわからないような社会政策でお茶を濁しているばかりで本当に腹立たしい。日本の政治家には知恵というものがないのか。橋下知事がどうしても大阪にカジノを作りたいと言うのであれば、そしてカジノを通じてたくさんの勝負師を養成したいのであれば先ず自らが、知事の任期中は忙しくて無理であろうが退任した後は、最低でも月に100万円はカジノで勝負しますとお約束していただきたいものだ。