龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

眠れる森の大衆

小沢一郎が強制起訴されることになった。何て言うべきか、日本の権力構造は今回の中国との問題を見ても明らかな通り、外部からの圧力に対して極めて弱いため、総体としての権力パワーを減少させないために内部(国内)の権力者を徹底的に成敗するかのパフォーマンス劇を時々、我々国民に演じ見せることによって、権力構造の脆弱性を目立たなくさせると同時に統治力を回復させる必要性がある。そこにアメリカの政治的な介入や工作活動が、親米路線というベクトルの範囲内で日本型権力の質をコントロールしようとすると、どうしても検察やマスコミが自己保身的な利害の一致を見て裏側でアメリカの意向を忖度したシナリオ作りに参画することになってしまう。何もこれは小沢に限った問題ではない。戦後、日本がアメリカに占領されていた当時から幾度となく同じような政治操作が繰り返されてきたことであるし、今も尚、政治勢力の分布や動向を含め日本権力の趨勢はアメリカの掌中にある。その全体的なバランスが崩れようとする時に権力機構の調節弁のように政治パフォーマンスが作動することになる。これは必ずしも陰謀論の類の話しではなく歴史的な“事実”なのであるが、一般大衆にはそこまで見抜く洞察力も知識もない。
私は、裁判員制や検察審査会の制度について基本的には賛成であるが、いわゆる“市民感覚”なるものの危うさについて警鐘の言葉を発せざるを得ない。今回の小沢事件のように背景的には非常に高度な政治事件は、素人が判断すべき事案ではないのではないのか。11人の審査員は日本には相当数のCIA工作員が常駐していてマスコミや政権与党と水面下で深く結びつき、世論操作や政治スキャンダルの報道にも関与しているであろうことなど恐らく誰も知らないのではないのか。
マスコミの全般的な報道姿勢そのものが一貫して工作的であった。検察が2度も小沢を不起訴にしたにも関わらず、マスコミは“説明責任”を求め続けた。小沢が怪しいというのであれば、報道者であれば、自分の足で決定的な証拠を掴んでこれば良いのである。“怪しさ”そのものを罰する法律など日本には存在しないはずだ。政治と金の問題だけは特別だということにはならないはずである。しかしマスコミは空中から毒ガスを散布するが如く、決定的な証拠がないにも関わらず小沢が真っ黒な不正者のイメージを垂れ流し続けてきた。これでは、一般的な市民が、小沢を逃がしてはならない、徹底的に追い詰めて政治生命を絶たなければならないと考えるのは当然である。その結果が政治資金収支報告書への虚偽記載という微罪での起訴である。世間の大半は、小沢は政治を利用して私腹を肥やしている人間だと思っているであろうから、その決定を拍手喝采で喜んでいるのであろうが、いかがなものであろうか。
日本という国は本当に大変な国である。しかし日々、バラエティーお笑い番組を見て笑い興ずるように、体制の思考様式や感性に従っている方が幸せだと感ずることもその人の権利である。全ての人間を目覚めさせることはできない。寝ている人間を無理やり起こしても恨まれるだけである。目覚めた人間だけで戦わなければ日本は変わらない。でも無力感の中で、私もうとうとと、眠たくなることが多い。平和の森はあまりにも深い。