龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

世論の改革

問題意識を持ちながら書いていると、ただ純粋に書くという行為そのものから見えてくるものがある。私に朧げに見える光景は、世論と言う名の暗き地下水脈だ。私は書きながらダウジングのように水脈の在り処を探ろうとしている。日本という土壌の地下にどのような意識層が流れているのか、無謀にも私は書きながら自分なりのマップを作ろうとしている。だから書くことは危険だ。しかし生きる事だって結局、危険ではないか。安全地帯などどこにも存在しない。どうやら水脈は一つではない。方々に分岐しながらたくさんの支流を形成している。本流は常に人為的な河岸工事が施されていて分流に落ちぶれないように制御されている。河岸工事はともかく本流そのものが、天の声たる清冽な雨の一滴が寄り集まって小川となり、複数の小川が合流して悠々とした大河の流れに変身し、そして豊饒の海たるべき社会に注ぎ込むのであれば、その自然の理法に対して誰が文句を言えようか。しかし私が書きながら感ずるところの水脈とは、片田舎の小さな田んぼを利水する用水路のようなものである。これを「我田引水」という。
今回の民主党代表選挙についていえば、マスコミの論調は判で押したように、“世論は小沢に対して一度くらいは総理大臣をやらせて見てもよいのではないかという意見も一部にはあったものの、小沢の古くて強引な政治手法が今の時代にそぐわなくなっているがゆえに、全体的には圧倒的多数で小沢ノーの審判が下されたものである”、という見解が入試の模範解答のごとく示されている。
世論誘導の特徴がここに端的に表れている。“小沢に一度くらいは総理大臣をやらせても良かった”などと既存体制に反する声を代弁することで自らのコメントに客観性、公平性を装いながらも、小沢の政治手法は旧時代に属するものだから世論に淘汰されたのは当然だという本流の見方を強調しているものである。もちろん一司会者や一解説者がどのように感じようとその人の勝手であり、その意見を公共の電波で述べることも表現の自由として憲法で保障された権利ではある。しかし問題はそういうことではないと思う。
私は前にも書いたとおり、個人的には必ずしも小沢的なる政治手法を支持するものではない。いわゆる“金”よりもむしろ“数”の原理に私は小沢の限界を見てしまう。しかしそれはそれである。“それはそれ”という感覚が今のメディア報道に汚染された情報の中では非常に伝え難い虚しさに包まれる。なぜなら小沢の政治が古くてダーティーだという一方的な見方は、マスコミや大企業が自らの田に水を引くための論説であることは明らかであるのに、その報道姿勢を批判する声は当たり前のことではあるが絶対にTVや新聞からは出てこないものであるからだ。私はこれは日本の民主主義を考える上で何よりも大きな社会問題だと思う。メディアは社会の木鐸どころか、自分たちの利益のために世論を利用している側面が極めて強いのである。その傾向はここ数年で益々強化されているように感じるのは私だけであろうか。先ずこの点について我々はメディアが公共性を保持しているかの幻想を綺麗さっぱりと捨て去る必要性に晒されているのではないのか。いまだに新聞やTVニュースは公平な報道を心がけていると思い込んでいる大衆がほとんどである。その思い込みは間違っている。今やニュース報道そのものが性質的に商品コマーシャルと大して変わらないものに成り下がっている。たとえば前回、私が述べた民主党代表選挙の党員・サポーターの投票はがきにプライバシー・シールが貼られていなかった事実や、開票前における小選挙区ごとの仕分け工程の疑わしさについては、新聞やTVニュースはまったく触れようとしないことである。小沢の政治資金収支報告書への記載不備の問題とどちらに“説明責任”の重要性があると言えるだろうか。一政治家に説明責任があるのであれば、本来メディアや政党はより大きな説明責任を負っているはずである。自分たちのより大きな説明責任を果たそうとせずに、政治家とはいえ一個人を報道で血祭りに上げて、ご都合主義で世論の流れを作る行為はまさに大逆無道であると言える。
10月2日号の週刊現代菅直人に関する、「政治とカネ」の疑惑が掲載されている。菅の政治資金管理団体草志会」と菅の政治団体菅直人を応援する会」が、菅の派閥組織である「国のかたち研究会」の家賃や人件費、事務所経費の一切を肩代わりして帳簿上、付替えしているというものである。必要経費の付替えは政治資金規正法の虚偽記載にあたるとのことである。
正直なところ、私はこの程度のことで不正疑惑だなどと批判したくはない。しかし現在小沢が問題になっている政治とカネの問題もまさにこの程度のレベルなのである。小沢のゼネコンからの収賄も収支報告書への不記載も検察は小沢を不起訴にしているが、検察審査会政治資金収支報告書への虚偽記載について小沢を起訴相当と判断するかどうかが問題となっている。そして検察の不起訴処分決定以降も新聞やTVは小沢=悪であるとのイメージ報道を垂れ流し続けてきた。それならば、これまでクリーンを標榜してきた菅直人の政治とカネの問題は、小沢以上に幅広く報じられる糾弾される社会的必要性があるといえるのではないのか。同列、同種類の問題を抱えながらあちらはクリーンで、こちらは悪人というのではあまりにも報道の公平性に欠陥があり過ぎる。
もちろんこれらの矛盾をどれほど声高に叫んだところで、マスコミは菅がクリーンで小沢がダーティーだとの報道姿勢を崩さないことは目に見えている。菅と小沢の固有性を超えて、“菅的”なるものと“小沢的”なるものの対立軸で我々は洞察しなければならない。問題の本質は世論という地下水脈をマスコミが代表する既得権益層のために、彼らの畑の作物のみを大きく実らせために、今後とも提供し続けるのか、あるいは我々国民の生活を豊かにするために自分たちの手に取り戻すのか、その二者択一の判断が迫られているという認識が持てる程度にまで、全ての大衆が目覚めることができるかどうかだ。それが社会改革の第一歩である。