龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

謙虚な意見

世論調査において、設問項目の内容で、世論調査実施者が望ましく考えるところの回答分布を導くことは簡単であるゆえに社会的な危険性が高いと見れるものである。職業柄、誘導尋問に慣れているような弁護士であれば、露骨に誘導的な質問を受けた時に、“その質問には答えられません”、あるいは、“その質問に答える必要はありません”と答えるであろう。ところが真面目に純朴な日常生活を営んでいる大多数の庶民にとって、まさか世論調査で誘導尋問されるという感覚は皮膚感覚的にも頭の中にも存在しないものである。
そのような人々にとって世論調査で“わからない”という回答の選択肢はあっても、“答えられない”とか“答える必要がない”などという回答は有り得ないものである。よって電話などで世論調査を受けた時に一般的な感覚の人々は、設問内容に対して誠実かつ忠実に答えようとするであろうから、設問に埋め込まれた誘導に沿った答えになるのは当然のことである。前回、書いた“政治と金の問題で小沢一郎氏の説明責任は果たされていると思いますか”や“起訴される可能性のある小沢氏の代表選への立候補について納得できますか”などの設問はその典型例であると言える。思想的に中立で無垢な大衆層を政治的に利用するかの世論調査は、その実施者であるマスコミ責任者(新聞社であればデスク、放送局であれば局長)の品性が疑われるものである。大衆心理をいくらでも操作可能なものと蔑視しているからこそ、このような世論調査を平気で何度でも実施できるのではないのか。そこにあるのはメディアの市民に対する一方的な押し付けの啓蒙でしかない。大衆に善意と感動を押し付けるチャリティー番組の偽善とまったく同質である。
また大衆の方にも問題がないとは言えない。なぜならこのような世論調査の名を借りたメディアの政治への介入を黙認している節があるように見受けられるからである。自分の感覚に沿った、溜飲が下がるメディアの偏向報道であれば深く考えずに歓迎する人は多い。たとえば小沢一郎が嫌いな人は、メディアに対してもっと徹底的にやっつけろと拍手喝采する。そこに疑惑追及の、論理の飛躍や根拠の不明瞭があってもほとんど気にする人はいない。なぜなら全体的なメディア報道の雰囲気に呑み込まれてしまっているからである。しかしメディア報道は真実の追究よりも、情報操作で土石流のような世論の流れを作って影響力を行使しようとする側面が極めて強い。それが芸能人のスキャンダルならともかくも、次期首相を選び国の指針を決定するところの情報源となるのであれば危険きわまりないと言わざるを得ない。一時的に自らの鬱憤を晴らしてくれるようなメディア報道に満足していても、あるいは直接自分に利害関係が無いからと放任していれば、必ず別の時に別の形でそのような無責任な情報操作によって自分の権利や生活が損なわれることとなるのである。それを知ることこそがメディアリテラシーの本質なのだ。メディアリテラシーに問題意識を持たなければ民主政治の質は低下する一方であり、柔らかなファシズムが進向し、我々の日常生活においても文化的かつ精神的な健全水準を維持することは不可能だ。よって我々は、日本語の問題に過ぎないような世論調査(捏造)や報道のあり方に対して神経質なほどに警戒的である態度が求められていると言える。
ところがメディアそのものは、浴びせかけるように連日“政治と金”の訓戒報道を垂れ流すのにメディアリテラシーの問題についてはまったく触れない。どなたか新聞もしくはテレビ番組で、メディアリテラシーの特集を目にされた方があるだろうか。少なくとも私はこれまでの人生においてただの一度もない。ここにおいて我々はある一つの認識を持つ社会的要請に晒されている。それは“政治と金”にまつわるトピックはそれ自体に内在する問題性を否定するものではないにせよ、マスコミが政治的影響力を直接行使し得る唯一の手段であるということだ。政治家の不正とメディアリテラシーの二つの問題が重なり合って一つの像を結んでいるのである。よって我々はメディアリテラシーを“政治と金”から意識的に分離して検証する必要性がある。“政治と金”がマスコミの政治的影響力の手段であるならば、言い換えれば、“政治と金”はマスコミにとって兵器のようなものであると言える。政治と金に関する不正疑惑の一つ一つの情報が手持ちの銃弾なのだ。この例えが意味するところがおわかりになるであろうか。政治と金の問題が完全に浄化される政治システムは、マスコミにとっての唯一の兵器を失うことに直結するということだ。それはマスコミの情報操作を通じた政治介入への道が絶たれてしまうことであり、権威と権益の拠り所を喪失するということである。よってマスコミは必ずしも社会的な正義と良心から政治家の不正を追及しているわけではないのである。むしろマスコミこそが、政治と金の不正が蔓延る社会的土壌を必要としているとも言える。あたかも平和の尊さを訴え続ける武器商人のようなものだ。マスコミをマスコミ足らしめる原動力は、政治と金の追求しかない。この視点から見れば、マスコミの政治と金に対する攻撃の激しさと執拗さが、そして政治と金の根本原因である企業献金そのものは存続させようとする“矛盾”の背景が理解できるのではないであろうか。政治改革が進展しようがしまいが、そんなことはマスコミにとってはどうでもよいことである。
私のこのような見解に対して多くの人が、あまりに世間一般の常識的な感覚から遊離しているゆえに奇異な印象を持たれるのではないであろうか。おそらく9割以上の人がそうであろうと想像する。倣岸不遜に聞こえるかも知れないが、9割の人々は身の回りの情報に激しく洗脳されているのである。洗脳は宗教団体の中だけにあるのではない。このようなことを書くと何かしら陰謀論者のたわ言のように聞こえるかも知れないが、私から見れば陰謀論という世界も一つのマーケットに過ぎない。大新聞社や系列下の放送局の論調が巨大で正統的なマーケットを支えているのであれば、陰謀論は変り種を対象にした比べものにならないほど小さなマーケットである。どちらも規模の大小の違いはあっても基本的には金儲けの世界であることに変わりはない。人間、生きている限り洗脳から100パーセント離れることなど有り得ない。資本主義社会の秩序とは多かれ少なかれ金儲けのための論理(洗脳)だと思う。しかし“洗脳”とは何かを考える時に私は最終的に“情報”の方が“人間”よりも価値があると考えるところの原理主義だと思うのである。それはメディア報道であっても宗教組織の教義であっても同じではないのか。少数意見を大切にするとか、生命を尊重するとかその団体の建前がどのようなものであっても、団体の利益を守るためには情報を通じて巧みに不特定多数の人間を利用する操作から離れられないのである。身の回りの情報に対してあまりに受身の態度で鵜呑みにしていると、我々は結局マスコミなど強者のご都合主義で騙されるだけということになる。特に今の時代は新聞社などの経営も自転車操業的に陥ってきているので、本音のところでは奇麗事などいっていられない苦境下にあるのではないのか。法人税の減税や消費税の増税、あるいはそれらの政策につながる菅直人を全面的に支援し、反対に小沢一郎の足を闇雲に引っ張るかの論調は、私は所詮その程度のものだと考えている。情報に絶対的な中立性を求めることは無理であるにせよ、情報とは本来自分を守るためにあるものだ。自分が属してもいない社会的強者層の我田引水的な論説に唯々諾々と従ってあげるのは、あまりに馬鹿げていると思わないか。私は民主党政権誕生以降のマスコミの有無を言わさぬ露骨な大衆操作にかなり腹を立てているのだ。もちろん見方は人それぞれだから自分の見解が絶対だとまでは言わないけどね。私はマスコミの連中と違って謙虚だから。