龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治と社会の質

マスコミの収益力は大企業の利益に直結している。マスコミに登場する知識人や評論家及びタレントの収入もスポンサーである大企業に依存している。
よってマスコミやマスコミお抱えの評論家たちが、政策的に大企業を優先する政党や政治家を応援することは、朝日が東の空から昇ってくるのと同じくらい当たり前のことである。それは政治的な思想や信条の問題ではなく、経済的な即物性というか功利性を求めるところの構造的な結果に過ぎない。
ところが有権者の大多数を占める庶民は、ニュースや経済番組を熱心に見ていてもそうは考えない。テレビに出てくるような立派な学者さんは、広く国民全体のことを熟慮した上で発言してくれているに違いないと思い込んでいる。法人税の減税とセットになった消費税増税はその最たるものだ。我々の子供の世代に国の莫大な借金を引き継がせる訳にはいかない。御尤もな意見ではある。日本を破綻国家にさせてはならないから我々庶民も、もっともっと犠牲を負わなければならない殊勝な気持ちになる。しかし番組やコメンテーターが日本の将来をまったく憂慮していないとまでは言わないが、本音のところではもっと近視眼的で利己的な考え方しか有していないのである。“である”などと断定すれば、その道の専門家の貴重なご意見を侮辱するようでお叱りを受けるかも知れないが、それでもそうである。法人税が減税されれば必然的に大企業の広告費は増額される方向に強くベクトルが働くことになる。そうなるとマスコミやタレント評論家はより儲かる道が開ける。それは数十年後に日本の財政状態が健全化されているかどうかではなく、数年後における“彼らの取り分”の問題なのだ。そして、その減収分は消費税増税で穴埋めさせておいて、強い財政、強い社会保障のためだと説得する方法が一番効果的な大衆啓蒙のあり方である。そんな馬鹿でもわかるような単純な理屈で世の中が動いている訳がない、テレビに出演している有名な経済学者や政治家の先生方はもっと高等な分析で日本の財政と経済を考えているはずだと信じたい人は、一生そのように考えながら暮らしてゆくのが幸福なのかも知れない。しかし私に言わせれば、現実の舞台裏とはいつの世もその程度のものなのである。権威を嵩に大衆の蒙昧や信じやすさに付け込んでくるのが“彼ら”の常套的な手段であって、中身の内実は至ってシンプルだと私は考えるものである。そしてそのシンプルさへの認識に到達するところに、自分の頭で考える知性が要求されるのではないだろうか。有名な学者の人が書いた本をたくさん読めば読むほど、我々の日常生活が豊かになるというものでもないのである。
昨年の8月に民主党政権が誕生してから、あるいは誕生する前から、そのようなメディア情報に惑わされずに自分の頭で考えて意見を発信できる人が確実に増えてきているように思われる。しかしそのような人々の意見は、マスコミが支配する全体的な空気にそぐわないものであるゆえに社会の表面に浮かび上がってこないのである。結局、マスコミが管理している本質的なものとは既存の収益システムを守るための空気(風潮)なのである。大勢に異質な感性や洞察が拡がりを見せれば、これまでの管理者的な社会層の詭弁や欺瞞がどんどん暴かれてゆき、“彼ら”の社会的地位や影響力も低下してゆくことになる。よってそのような言論は目に見えない圧力で包囲されることになる。もちろん言論の自由憲法で保障された権利であるから表立って弾圧されるようなことはないが、大資本の収益システムに結びついた世論というか空気を守るための“彼ら”の阿吽の結束には凄まじいものがあるように感じられる。それが私が言うところの“柔らかなファシズム”なのだ。
その“私”と“彼ら”を隔てる要因が、民主党政治と自民党政治との、あるいは民主党内での小沢一郎菅直人の対立そのものなのであると言える。政治の責任とは一体、何であろうか。私はそれは公約を守ることにあるのではないと思う。もちろん国民との契約とも言うべき公約を守ることは大切なことではある。しかしそれは政治の本質ではないと思うのだ。消費税を含めて、子供手当ての金額とか、ガソリンの暫定税率や高速道路の通行料金などは重要な政策ではあるが所詮、金の問題である。それでは政治は金が全てなのか、ということになる。私は政治の本質とは、目指すべき“社会の質”を明確にして、決して曲げないことだと思うのだ。それでは社会の質とは何か。子供を産み育てやすい環境とか、雇用や所得格差の問題などは社会政策上の課題であって、社会の質とは直接には関係ない。社会の質とは日本型権力システムの内部構造と国民生活の関係性である。
民主党が公約とした官僚主権から政治主導へ、あるいは国民目線の政治に、霞ヶ関の一極集中から地方分権へ、アメリカとの対等な関係、これらが権力構造の変化が伴うところの社会変革を意味するものである。具体的な政策ではなく社会の質を変えようとした民主党の“決意”が国民に受け入れられたのだ。ところがマスコミと官僚は結託して社会の質(権力構造)を変えさせないために、民主党政権そのものを変質させて自民党政治に回帰させようと工作した。この構図が見えなければ結局国民はマスコミに騙されてしまうであろう。
政治が目指すべき社会の質に政党間の対立がなければ、それは政党政治の有るべき姿だとは言えない。そこにあるのは派閥間の権力争いだけである。政策などは頭の良い官僚に考えさせておけばよいのだ。頭の悪い政治家は無理をして政策など考えなくてもよい。しかし目指すべき社会の質だけには妥協してはならない。なぜなら政治や政党の根本的な存在意義に関わることだからである。政治とは志である。私は民主党が本気で、国民主権の国民のための政治を目指すのであれば消費税がたとえ20%であってもかまわないと思うのである。ところが菅直人などは民主党政権誕生の公約から信条を転向させて、官僚やマスコミに阿る政治スタンスに立っていることは顔にそのまま書かれている。そのような信念の欠片もないような政治家が主張する増税など誰が考えても大企業への利益誘導以外の何物でもない。菅直人参院選敗北による総括発言を聞いていても消費税増税への言及が唐突で誤解を招いたからだとか、今一度初心に立ち返る必要性があるとか言っていたが、うやむやに責任を誤魔化そうとするかの軽々しさしか私には感じ取れなかった。日本社会のあるべき質(権力構造)に対して、身体を張ってでも責任を持ち得ない者は総理大臣の器ではないのである。私は菅直人都道府県の知事の器でもないと思う。せいぜい区役所の所長ぐらいが相応しいのではないのか。そういう人間がいつまでも総理大臣であることは私は日本人として恥ずかしい思いである。
菅直人の周りに集まる閣僚は、菅直人の総理大臣としての能力を評価しているのではなく自分が総理になる近道として打算的に持ち上げているのではないのか。前原然り、枝野然り、あるいはクラリオンガールもそういう野心を持っているのかも知れない。皆さんそういう顔付きをしておられる。岡田だけは信念をもった政治家のようにも見えて、その集まりの中では何かしらまともである。