龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

空虚な民主主義

俳句のネタが尽きてきたからというわけでもないが、言いたいことは言わなければ気がすまない。表現、報道の自由は、健全な民主社会のために絶対的に守られなければならない一つの軸ではある。そこのところはよくわかる。
報道機関が政治の強権を前に真実を歪めなければならないのであれば、暗黒の独裁社会となるであろう。しかしである。自由とは責任が伴う社会概念である。
私がこうやって、自分の考えを文章にまとめて公表する自由にもそれなりの責任がある。広義の意味では新聞報道と一個人が意見を開陳することは、同じ自由の範疇に属するものと見れるのかも知れない。だが常識的に考えれば、新聞報道は一個人に比べて、より大きな自由と責任に対する自覚が必要なはずである。そのような社会的な自覚を、本当に新聞社の人間は有しているのかどうか私は疑問を感じざるを得ない。
民主党鳩山首相小沢幹事長に対する、新聞社の政治と金の追求であるが、正直に言って私は未だに何が問題なのかよくわからない。政治資金規正法上における記載の不備が犯罪になるというのであれば、ああそうですか、としか言う他ないが、果たしてそれが“政治改革の進展を妨げる”ほどの理由になるのであろうか。各新聞社が民主党の政権誕生直後から、“意図的”に民主党の足を引っ張っているのはどう見ても明らかである。これは報道の自由とか、報道が政治権力を監視するという正義の建前を超えて、暴走としか言えないものである。メディア権力が本来の使命を超えたところで民主主義の進歩と成熟の妨害を成すのであれば社会的に害悪なのはどちらの方だと私は言いたい。
ところがこのような新聞社の暴走が、メディアそのものの権力基盤を維持する社会誘導としてのパワーゲームに過ぎないことをほとんどの大衆は見抜くことができない。大衆どころか司法機関まで巻き込まれて政治の不安定な状態が引き起こされる。その結果、国民の政治離れや無力感の閉塞状態はより一層深まり、情報操作の立場である新聞社及びその系列企業は“相対的”に権威と影響力が維持されることになる。これらのことは国民に対する洗脳工作の結果であるから、なかなか私が主張するところの真意を一般的なレベルで理解していただくことは難しいと思われる。というよりもほとんど不可能なのではないだろうか。
私の母などはテレビで小沢一郎の顔を見ると、まるで聖職者が街角で悪魔に出くわしたような反応を起こす。「やらしい、やっちゃな、こいつだけは。」と怖気をふるうように毒づいている。ところが何がやらしいのか、具体的なことは何一つわかっていない。新聞やテレビなどにイメージ誘導されているだけである。日本大衆のほとんどは、私の母と同程度の認識力なのではなかろうか。大衆だけではない。民主党内の、ほとんど何の実績もなければ、能力も識見も備えていないような若手議員までもが世論に同調して首相や幹事長の辞任を要求する。大衆迎合と大衆操作の成れの果てである。もちろん政治家の不正を大目に見ろという話しではない。程度の低い正義のために国民生活が侵食されてゆくことを放置して一体、最終的に誰の幸福になるのかということである。家が火事になれば先ず、逃げ出さなければならない。激しい夫婦喧嘩で家が火事になっていることにも気付かずに結局、夫婦も子供も逃げ遅れて皆、焼け死んでしまう。私には日本の民主主義とは、そのような程度のものに見えてしまう。マッカーサーが日本人の精神性は中学生程度だと発言したようだが、戦後65年も経って日本人は大学生ぐらいには成長できたのであろうか。
私には、日本の姿は“サザエさん一家”同様に時間が止まったアニメのように思えてしまう。とは言ってもアメリカのハリウッド映画を見ていても、日本人以上に幼稚だなと感じられることは多いのだが。