龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

民衆の私怨

“FDに時限爆弾を仕掛けた”とは具体的に何を意味しているのか、よくわからない。また、前田容疑者が本当に検察同僚に対してそのようなことを言ったのかどうかも疑わしく思われる。私は特に前田容疑者の味方をするつもりはないが、“公正中立”の視点で見ると今回の報道はやはりおかしい。
前田容疑者がFDの内容を書き換えたことは事実のようなので、それは検察官の職業倫理の点から大いに批判されるべきではあると思う。しかし、それと証拠隠滅罪での犯罪が成立するかどうかは別問題だ。私は素人なので刑事訴訟手続きの詳しいことはわからないが、一般的に見て刑事事件では、特に今回のように特捜検察が主導する注目度の高い事件では、膨大な量の証拠品を収集して分析し、被告への取り調べ内容と合わせて、被告を有罪に導いてゆく“見立て”が徐々に固められてゆくのではないのか。事件の性質にもよるであろうが、逮捕前あるいは逮捕直後から見立ての方向性を一通りだけに決めてしまえば、いくら検察が都合の良い供述を恫喝、無理強いして被告から引き出したところで証拠品との整合性などから弁護士に矛盾を論破されてしまうことは目に見えている。検察が一旦構築した事件の見立てに対して、後からその見立てに矛盾した証拠が発覚することは特段珍しいことではなく、むしろ一般的であるはずである。捜査権力の見立てと証拠品が全てパズルのように、ぴったりと符合することの方が不自然である。それでは担当検察官がそのような矛盾証拠に直面した場合にどのような対応が予想されるであろうか。無視するか、見立てそのものを変更するかのどちらかである。無視したとしても被告人弁護側から検察主張の矛盾を暴くために証拠開示の請求がされる可能性があるから、その兼ね合いのもとで検察の見立てが修正されることは有り得るであろう。ところが前田容疑者は証拠品を検察の見立てに合うように改ざんしたとされている。我々取り調べられる立場の感覚ではそのように思えてしまうかも知れないが、検察官がある一つの矛盾証拠を改ざん、隠滅するような不正行為は、その後に出てくるかもしれない他の証拠品や供述までも次々と見立てに合うように改ざん、隠蔽、誘導しなければならないことを意味することになる。そのような切りのない不効率で不合理な立証方法に拘泥していたのでは結局のところ捜査側の主張そのものが論理破綻に陥ることは明らかなので、通常は検察官が証拠品に手を加えることは有り得ないことだと思われる。但しそのような不正が絶対にないとも言い切れない。ケースバイケースではないであろうか。
FDが上村勉被告宅から押収されたのは2009年の5月で、村木厚子氏が逮捕されたのは翌月の2009年6月である。ところが前田容疑者は2009年の7月16日にFDを上村被告側に返却している。検察は2004年6月上旬に村木厚子氏から上村被告への指示があったものと見立てていた。FDの最終更新日時は6月1日であり、その事実は検察主張と矛盾するものであるから、前田容疑者が証拠隠滅をなす必要性があったと見ることにはそれなりの妥当性があるのかも知れない。しかし私にはやはり短絡的に思えてしまう。
なぜなら前田容疑者がFDを返却したのは村木厚子氏逮捕のわずか1ヶ月後である。この時点では押収した証拠調べが一段落して事件の構図が検察の見立てとしてようやく固まり始めてきた段階なのではなかったのか。村木氏の初公判は2010年の1月だから、前田容疑者がFDを返却した7月16日から初公判までに半年もの期間があったのである。前田容疑者がFDデータを書き換えたとされる7月13日時点で、検察の見立てそのものに修正、変更がどうしてもきかない村木氏側の絶対的な証拠が存在しなければ前田容疑者には証拠隠滅の必要性は存在しなかったと言えるのではないのか。要するに前田容疑者が意図的に証拠隠滅したと報道するのであれば、“2004年の6月上旬に村木氏が上村被告に指示した”とされる検察の見立てそのものが2009年7月時点で検察にとって動かしがたいものであったことを証明しなければならないはずである。しかしそのような肝心な状況を説明する記事は見当たらない。
前田容疑者がFDを返却した2009年7月は大阪地裁の判決が出される1年2ヶ月も前の話である。現時点では村木氏の無罪は確定しているからこそ遡及して検察官による証拠隠滅がなされていたのではないかといえることであって、裁判だから村木氏が有罪になる可能性も当然あったわけである。仮に村木氏が有罪になっていたとすればこのようなスクープ報道がなされたであろうか。結果論の類に過ぎない話しを新聞社が率先して時流に乗ずるように、検察官とはいえ一個人を犯罪者扱いするのは、非常に危険である。また今回の最高検の動きはどう見ても新聞社と連動しているようで不可解である。
朝日新聞の記事は肝心な説明が抜け落ちているのである。たとえばFDを今年の夏に大手情報セキュリティー会社に解析を依頼したと書かれているが、昨年7月13日に専用のソフトで最終更新日時が書き換えられた痕跡があった事実が判明したのが、村木氏の無罪判決が出された9月10日より“前”か“後”かが書かれていない。もし、それが判決前であれば問題がある。なぜ分かった時点で報道しなかったのか、ということだ。現在の情勢では検察の組織的な関与が疑われるほどの大問題になっているのであろう。村木氏は無罪になる可能性が高いと言われていたが、裁判は大方の予想に反した判決が出されることも多いものである。村木氏が有罪になる可能性はあったのだ。仮に村木氏が有罪になった後に朝日新聞が報道したとすれば、裁判結果そのものの無効性とやり直しが問われるような大事件となったであろうか。おそらくはそうはならなかったであろうし、朝日新聞も村木氏が有罪になっていれば報道しなかったであろう。裁判とは有る意味で被告と検察との戦争のようなものであるとの喩えも可能かも知れないが、新聞社が勝ち馬に乗るように報道でA級戦犯を裁くかの姿勢はいかがなものか。そのような報道姿勢が、冤罪発生の土壌になっているのではないのか。
我々国民は冤罪そのものよりも冤罪発生のメカニズムを憎むべきである。対象が、政治家であっても官僚や検察であっても一個人が見せしめのように犯罪者に追いやられる時には、より大きな悪徳が隠蔽されているものである。メカニズムを摘発することは非常に難しい。それは我々自身の社会的な立ち位置によって誰か権力ある者を破滅させてやりたいという私怨の感情が最大の障壁になっているのかも知れない。そして民衆の私怨を利用しようとするのがマスコミなのである。