龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

俳句と私 2

クリスマス ネオンの祈り 煌々と
まあ、どうでもいいことだけど、この句は失敗作だ。何故、失敗なのかを考えていると、いろいろと見えてきたことがある。言い訳のように聞こえるかもしれないが、自分なりに分析を試みたい。
どこが失敗かと総じて言えば、私が伝えたい句意のニュアンスがまるで伝わらない言葉の羅列になってしまっているということである。誤解された方もあるかと思われるので先に趣旨を説明するとこういうことである。私は毎年、クリスマスのイルミネーションが、中身のない形式主義としての日本の象徴であるかのように感じていた。とりあえず綺麗に光ってさえいればよいということだ。そこに敬虔な信仰心や心などまるでなくとも、光りの海に包まれてロマンチックな雰囲気がそこはかと無く醸し出されていれば、あえて皆でそれ以上の難しいことは何も考えないことにしましょう、と。この傾向は日本の政治舞台においても端的に現れているのではないのか。総理大臣と各大臣をともかくも取り揃えて形式的に光らせる。そこには見通しも志も何もない。電源をオンにすれば点滅し、オフにすれば無言で消え去る。所詮はその程度の代物である。虚飾の灯りを点滅させ続けようとする勢力と、電源を引き抜こうとする勢力の争いだけが日本社会の実相であるかのように思える。もちろん、そのような意図の俳句表現は、クリスマスの煌びやかなネオンライトに(今ではネオン菅でなくLEDが主流かも知れないが)、人生の真実を求めている人々を興ざめさせ、激しい反感を買うことにもなるであろうが、そういうことも承知の上で確信的にあるいは無意識的に作った句である。
但し一応念のために言っておくと、日本各地で行われているクリスマスのイベントやそれらの雰囲気を批判しているわけではない。現に私自身、昨年の12月には私の両親と息子の4人で、御堂筋沿いの銀杏並木のイルミネーションを見て歩いた。悪くはなかった。中々に美しかった。電気代が勿体無いから止めろとかそういうことを言うつもりは毛頭ない。そういう意図の句ではないのだ。私が言いたいことはクリスマスシーズンの美しい電飾には、電飾以上の意味は何もないということである。電源をオンにすれば点滅し、オフにすれば消える。そこにあるのは人為的な操作だけである。神秘も幻想も何もない。クリスマスだけならまだしも、クリスマスのイルミネーションが日本の象徴であるとするなら問題は大きいと言えるのではないか。人工的なムードに酔わされているばかりでは物事の本質が見えない。電飾は電飾に過ぎないと達観して、煌びやかな光りの洪水に惑わされない態度が人生には必要である。そしてそのような見識の集積がなければ、日本という国は変わりようがないということでもある。
ここまで言えば、もうおわかりいただけたかと思うが、私の冒頭の俳句は(下手な俳句の解説で申し訳ないが)、日本のクリスマスの光景を批判と迄ではないにせよ、非常に冷めた目で傍観する私の心象風景に写し変えたものである。
ネオンの祈りとは、人々の祈りではなく、ネオンやLEDなどのイルミネーションそのものの祈りだということである。そこには中身(祈り)に相当するものがなく、軽薄な形式主義があるだけだということを強調するための私特有の反語的な表現手法なのである。それではなぜこの句が失敗に終わっているかと言えば、先ず第一に純粋に日本語の問題がある。“ネオンの祈り”とは、神戸ルミナリエ祭典のように、人々のネオンに込められた祈りという文意の省略形として通ってしまうということだ。あるいはネオンそのものの祈りとして読み取ったとしても、日本人には万物に心の存在を認めるアニミズム的な精神性がある。イルミネーションライトなどの物の祈りであっても詩的言語とすれば、日本人にはそれほどの違和感がない。よって私の反語的な意趣が見え難くなってしまっているのである。よってこの句は、日本人よりも欧米人の方が理解しやすいのかも知れない。たとえばアメリカ人に対してネオンの祈りなどと言うと、ネオンに祈りがあるわけがないではないかと怒り出すであろう。そしてその後にナンセンスな言葉の裏側にある反語的なニュアンスを感じ取ってくれるのではないか。
第二に、反語そのものの問題がある。前回のエッセーで書いた、“秋の陽が貧者の善を美に染める”の句も同様に反語表現である。俳句における反語表現は、もしかすれば禁じ手なのかも知れない、と思い至ることとなった。俳句芸術の中核となる余韻の効果は、日本語の曖昧さと切り離せないものである。言葉が何かの対象を特定するのではなく、その対象に附属する気配や心を日本人的な心性に沿って最小限の17音で生み出さなければならない。そこでは言葉そのものが明確な物自体を離れ、日本語の曖昧さを利用するかのように増幅させてゆく力を持ち、読み手の感情や記憶に訴求する触媒に変化しなければならない。そこにある世界は、雰囲気や気配という名の“曖昧の森”である。曖昧の森は裏と表がないからこそ安心してくつろげる場所であり、そして何よりも美しいのだ。物と物との境界はぼかされて、ふんわりとした慈愛のようなものが全体を優しく包み込む。これは正に日本の天皇制にまでゆきつく、日本人の基本的な精神構造なのではないのだろうか。俳句における反語表現は、裏表があってはいけない世界に裂け目を入れる反逆行為なのかも知れない。そもそも俳句を離れて見ても、日本人の日常会話に反語はなくはないが、決して多くはない。また使われる反語は子供に向けて使うような簡単なものがほとんどである。ところがアメリカ映画や翻訳小説の中には、反芻して考えないことにはすぐには意味が読み取れないような難しい反語が多く見られる。その部分だけ切り離して見れば、日常的にもそのような高度な表現を多用するアメリカ人は頭が良くて、日本人は幼稚な国民のように見えなくもない。まあ実際に日本人が使う日本語能力が貧しくなってきており幼稚化してきていると見る向きもあるのだろうが、反語に関して言えば、アメリカ人に高度な反語が多いのは物事の善悪をはっきりさせようとする精神構造に根ざしているのだと思われる。日本人は玉虫色の言葉もある通り、物事を曖昧にさせる心の特性を共有しているのだ。それでは私が俳句の中に反語的表現を取り入れるのは、善悪を明確にするためなのかと言えばそういうことではない。私は日本人ではあるが、私特有の精神構造が反語へと向かわせるようである。私の世間を見る目には、シニカルで冷笑的な視点がある。その一方で自らの観念的な美意識を発現させんとする芸術的な衝動も存在する。冷笑的な視点と観念的な美意識が融合してほとんど無意識の内に、よくわかり難い反語表現が選び取られているのである。正直に言うと、“ネオンの祈り”とキーボードを打ち、にやっとする私がいる。しかし、すぐににやっと笑うのではなく、暫くしてから自分の意図がわかって一人で可笑しくなるのだ。私の言葉は、私の自覚に先行している。これは私の社会に対する冷笑性が無意識化するほどに根深いものであることを私自身に教えてくれる。冒頭の俳句は、わかり難さゆえに失敗作である。意趣の表と裏が見えない。まるでメビウスの環のように表と裏がつながってしまっていて、反語なのか裏表のない俳句本来の世界観なのかすら判然としない。しかしこの俳句が分かり難いという事実は、私という人間の分かり難さと同じ意味を有している。我ながら、自分と言う人間がこれでは俗世間に心の底から溶け込めず親しめないのは当然だと妙に納得したりもする。しかし私は今更ながら自らの精神構造を矯正しようなどとは思わない。なんでそんなことをする必要があるだろうか。私の表現世界の範疇においては、私は私を取り囲む世界の総体よりも偉いのだから。それを独善と呼ぶ人は芸術を理解し得ない人である。芸術とは独善的でなければ為し得ないという覚悟と決意が要求されるものである。私の表現は、誰かに対して何かの責任を負うような性質のものではない。そこに本当の自分がいるかどうかが全てである。また芸術性を志向する限り、権威や権力に阿る陰りが僅かでも顔を覗かせた時点で堕落であり負けだと私は考えている。
たとえ下手であっても私の作った詩や俳句の中に、私の影が存在すれば私は安心する。影の存在は、私が実在することの証明であるからだ。私は私を鑑賞する。俳句の中に姿を見せる“私”を私は憎くもなければ、愛しくもない。苦悩もなければ、幸福もない。晩秋の光りが、私という実体を通して私の影をそこに写す。そして影を見て安心する私がいる。神は私自身を見ているだろうか。
私の影は、ジョルジュ・デ・キリコの描く建物の影のように無感動に伸びてゆく。そしてその街には私以外に誰もいない。そう、誰もいないのだ。