大相撲の世界には、さして興味がなかったので、これまで深く考えたことはなかったが、それでも何となく漠然とではあるが、噂されているような“八百長”はあるのだろうと感じていた。何故、そう感じていたのかと問われれば、特異で閉鎖的な組織が国家の伝統や権威の名の下に保護され続ければ、腐敗しないはずがないという、私個人の単純な思い込みによるものに過ぎなかった。一個人の独断的な思い込みは、偏見に通じるものであるが、それでもその見方が歴史的な経験則に基づく洞察であれば、あながち間違いでないことが多いものである。相撲界は、否応なく必然的に腐っていた。熱心に声援を送っていた者たちがあまりにも哀れであると一般的には受け止められているが、肝心の相撲ファンの人々は自分たちが被害者であるという意識が、本当にあるのだろうか。意外と、相撲ファンは、相撲は八百長も含んだ興行であると心のどこかでわかっていながら楽しんでいたのではないだろうか、と私には思えてしまう。もちろん、だから八百長が許されるというものでもないが、そこには日本社会特有のある種の寛容さが存在していたのではなかったか。騙されても、うまく騙してくれるのなら、別にかまわないのよ、皆が騙されるのなら、それは一つの真実なのだから、という寛容さである。残念ながら、私にはそういう寛容の心を持ち合わせていない。サッカーの国際試合のような本物の真剣勝負にしか、私は見るべき価値を見出せない。だから私のような性質の人間は、日本社会にあって日本の文化や風習に馴染みにくい偏狭な日本人であるとも言えた。そのような自覚と共に生きてきた私にとって、今更ながら相撲の八百長が大問題になるということ自体がちゃんちゃらおかしい。多くの日本人はこれまでの寛容の心をいきなり捨ててしまって、私のような偏狭な人間の仲間になろうとしているのか。偏狭ついでに言わせてもらえれば、相撲界の体質を問うのであれば、相撲の放映を通じてこれまで多額の金を相撲協会に流し続けてきたNHKに責任はないのであろうか。NHKの金とは言うまでもなく、我々国民から強制的に徴収されている視聴料金である。NHKに相撲協会への監督責任があるとまでは言えないが、国技と国営放送で親和性が高いのは当然だとしても、そこに八百長や、やらせの腐敗要因を共有する構図があったとは見れないだろうか。NHKが一部のドキュメンタリー制作などで、民間の放送局に比べて質の高い作品を作ってきたことは認めるが、それでも組織的な腐敗臭が漂っていることは確かである。