龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

割れ窓理論とマスコミ

刑事事件における取調べ過程の全面可視化を求める声が大きいようであるが、私は基本的には賛成ではない。自白の強要が冤罪を生む原因のように言われているが、その考えは正当な司法制度を歪めるものではないのか。本来、自白そのものに絶対的な証拠価値を認めるべきではない。その自白を裏付ける客観的な証拠があってこそ、有罪であると認定されるべきである。犯人でなければ知り得ない事実は、当然に、容疑者を自白させなければ得られないものである。私は警察の肩を持つつもりはないが、警察の現場の仕事というものは“奇麗事”では成し得ないものであると考えている。世の中には、刑務所に入ったり出たりを何度も繰り返し、人生の半分以上を刑務所で過ごしているような前科者がたくさん存在する。そのような人間は取り調べの手口に通暁している容疑者のプロのようなものだから、並大抵のことでは自白に追いこむことは難しいであろう。取調べの現場とは、宥めたり、すかしたり、怒鳴ったり、時には小突いたりする密室であるべきだ。もちろん行き過ぎれば、警察が作った筋書きに迎合するような嘘の自白調書が作成されることになるであろうが、問題の本質は、そのような取調べのあり方にあるのではなく、自白内容の客観性や信憑性が法の下で公正に評価されてこなかったことにあるのではないのか。
検察は、現場の取調べから一歩離れて、冷静かつ慎重に、自白内容や証拠の客観的な再評価を行い、起訴すべき事案かどうかを決定しなければならない。ところが現実的には、警察がかなり無茶な取調べで送致した事案であっても、これまではほとんどベルトコンベヤー式に容疑者は起訴され、裁判に掛けられることとなった。裁判所は裁判所で、起訴された刑事事件の99%以上を有罪にしてきた。本来、警察と検察、裁判所がきちんと分離して権力が権力を監視する社会機能が保たれていれば、こういうことにはならないはずなのである。分離すべき権力機構が、横並びに心を通じ合わせてきた司法や行政の社会構造が、冤罪を生み出しているのであり、取調べ過程を可視化さえすれば冤罪がなくなるかの風潮は事の本質をごまかすものでしか有り得ないように私には思われる。取り調べ過程を全面的に録画することが法制化され、殺人などの凶悪犯の容疑者に対して警察の取調べが及び腰になるようでは社会全体にとっておおきな不利益だ。
しかし、殺人などの凶悪犯と微罪を同等に扱うことは問題である。ブロークン・ウインドー理論という言葉をご存知であろうか。割れ窓理論ともいう。割れた窓を放置しておくと、その地域一帯の治安が悪くなることにつながるとの推論から微罪を徹底的に取り締まる社会政策である。1980年代にニューヨーク市ジュリアーニ市長が採用し、当時、劣悪であったニューヨークの治安を飛躍的に向上させたことで有名になった。この割れ窓理論が、日本にあっては痴漢やDV、そして最近では駐車違反の取締りなどで実行されている。日本の馬鹿官僚の、何でもかんでもアメリカに追随すれば世の中が良くなると言う妄想が背景にあるのではないかと考えられる。しかし80年代のニューヨークと日本を同列に考えることには土台、無理がある。殺人や強盗、強姦が日常的に多発していた地域においては割れ窓理論は有効かも知れないが、日本のように比較的、安全な国での割れ窓政策は、善良な市民に対する抑圧にしか成り得ない。そしてこの抑圧的な統治方法が結局のところ、官僚や為政者の目的に適っているのではないかと推察されるものである。痴漢やDVなどの微罪を徹底的に厳しく取り締まることは、個別の事案が冤罪であるかどうかについて拘らないことを意味する。なぜならそこに訴えがあれば、あるいは路上に止められてある車があれば、それらを全てを割れた窓として看做す社会思想が背景にあるからである。所詮、割れた窓とは物でしかない。割れ窓理論とは、使い方を誤れば、人間をモノ化して統制しようとする傾向を増幅させる危険性を有しており、正に日本は市民社会がモノ化されているように見られる。そしてこれは日常的かつ広範に行われているところの強力な、洗脳手法であると私には考えられる。多くの市民は、権力が正義の名の下に微罪を徹底的に取り締まることによって、悪政や悪法に対し抵抗する気力が根こそぎ喪失してしまっている。無力感の中で、マスコミや行政が主導する全体的な傾向を、素直に受け入れるような思考回路が形成されてしまっている。
たとえば痴漢ひとつとって見ても、私には日本社会から痴漢と痴漢冤罪を完全になくする具体的な方法を提唱することが出来る。そんなことは不可能だ、と端から考える人は洗脳されているのである。さて、それでは具体的に述べることにしよう。簡単なことだ。タバコ購入におけるタスポのようなIDカードを導入すれば良いのである。券売機で、銀行口座から自動引き落としのIDカードが使えるようになれば券売機の前の混雑は解消されることにもなる。痴漢などの迷惑行為が発覚した時には、女性の訴えがどれほど信頼性が高いように見えても車内が混雑している時には、冤罪の可能性を排除することができない。そのような時に、鉄道会社は一々警察に突き出すような無粋な真似をせずに、IDカードの履歴に登録しておけば良いのだ。そして1年とか2年とかの一定期間の間に、2度、3度と痴漢や暴力などの迷惑行為が繰り返されるようになった時点で、そのIDカードを無効化する措置を取ればよいのだ。要するにその客は、無効措置が解除されるまで、仮に3年や5年間の間はその鉄道に乗車できなくなる。人権上の問題があるのではないかと、考える人もいるかも知れないが、それは違う。迷惑行為常習者であれば、鉄道会社はそのような客が他の客に迷惑をかけないように乗車させない責任があるとも言えるからだ。もし、この方法が採用されれば、痴漢など瞬く間になくなってしまうであろう。電車に乗れなくなるということは、社会生活を営めなくなることを意味するからだ。そこまでのリスクを犯してまで痴漢をする人間がいるとは思えない。
この案が採用されない、あるいは無視されるであろうことは目に見えている。その理由は、先ず第一に、各駅の券売機と券売システムをそっくり入れ替えることには莫大な費用が掛かるからである。しかしたとえ数百億円の予算が必要だとしても、果たして金の問題であろうか。一人の善良な人間が無実の罪で、痴漢にされてしまえば、多額の費用と時間を裁判に費やさなければならないことになる。そしてそれだけの苦労をしても裁判での勝ち目はほとんどない。その人の社会的生命は破壊されたのと同じである。こんな馬鹿げた理不尽なことがいつまでも許されてよいものであろうか。鉄道企業は痴漢撲滅のために、低予算の洗脳のごとき張り紙やアナウンスを止めて、ID識別システムを導入することが社会的責務である。
第二に、より根源的な問題であるが、私が今回、提唱したID識別システムの方法などは、誰でも考え得ることである。私は自分が世の中で一番、最初にその具体的な方法を考え付いたとも提唱したとも言うつもりはない。ただ、そのような誰もが考え付くような簡単なことが、社会の表面に出てこないことにどのような意味があるのかということを、皆さんによく考えていただきたいのである。もちろん人それぞれに考え方や信念は異なることを承知の上で、敢えて危険なことを書かせていただければ、日本社会の統治システムが、痴漢やDVなどの微罪に依存しているのである。なぜ微罪に依存する必要があるのか。それは微罪は、普通の善良な人間であっても魔が差せば、誰もが犯す可能性がある行為だからだ。ある意味において殺人などは特別な人間のすることである。普通の人間は(普通と特別の違いを明確に定義せよと言われても困るが)、どのような悪環境が重なったところで殺人などなすものではない。だから、平時において平気で殺人をなすような、全人口の割合から見れば0.0001%位の悪人の行為を比較対象にしていては、洗脳を伴う社会統治の手段に成り得ないということである。微罪を厳しく取り締まることが、大衆操作にとって非常に有効なのだ。結論を言えば(論理の飛躍があることは認めるが)、日本社会の支配構造が、痴漢を必要としているゆえに痴漢はなくならないのである。
そしてこのような支配構造はマスコミと深く、関わっているものである。痴漢やDVなどの微罪は、マスコミが大衆を睥睨して誘導するための手段でもある。その誘導の先には何があるのか、我々国民はよく考えなければならない。マスコミとは、マス・コミュニケーションの略であるが、マス・プロダクツやマス・セールスを抜きに存立し得ない存在である。不特定多数を対象にした道徳とは、突き詰めるところ、たくさん物を作って、たくさんの物を売るためにはどのような社会意識と社会秩序が効果的であるかという分析から離れられないものである。バレンタインデーに一つでもたくさんのチョコレートが売れるための有効な道徳とは何かを模索し、訴え続ける全国的な宣伝機関がマスコミの本質である。もちろん我々は資本主義社会の中で、誰もが物を売ったり、買ったりしながら生活しているわけだから、マスコミ道徳を無視する訳にはいかないが、マスコミ道徳は基本的にマスコミ組織のために作られた社会道徳の一部であると認識する必要がある。多くの大衆はこの認識が欠落、あるいは不足しているから、マスコミ権力に不必要に力を与え、政治介入まで許してしまうことに繋がるのだ、と私は考えている。たとえば消費税論議ひとつにしても、マスコミは消費税を引き上げることを、社会保障の充実や国家財政の改善のためではなく、マスコミ組織のためにこそ希求しているものである。なぜならマスコミが扱う商品とは、基本的に情報やイメージなどの実体がないものであり、また大手TV局や新聞社は完全な自由競争社会ではない。業界そのものが新規の参入が制限され、保護されているのでデフレや消費低迷の影響を直接に被るものではなく、増税路線が市民抑圧的な社会体制に君臨するマスコミの経営環境として有効だと考えられているからであろうと思われる。何度も消費税増税やむなしの社説やニュース番組を見せられた挙句に、消費税増税がいつの間にか既定方針として報じられるようになっても、市民は抵抗する気力すら失せてしまう。
こういう情報操作を洗脳と言うのである。