龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 103


TVの“やらせ”や“捏造”体質が放送業界内だけの問題だと考える人は社会全体の仕組みが見えていな

い。マスコミは第四の権力と言われる通り、裁判や警察、政治などと表面的には独立しているが水面下で

は同じ問題の構造を共有しており、時に同調的に動く。それら各管理者的組織の同調(結託)構造が、国

民の幸福や利益を収奪していることを理解できる人間は意外と少ない。私が述べていることは抽象的な理

想論ではなく、身近な生活感覚に根ざした具体的な話しなのである。やらせ報道は、冤罪や癒着を生む社

会構造の欺瞞的象徴である。

前回の記事に書いた「真相報道バンキシャ!」虚偽報道問題をわかりやすく分析し、以下具体的に例示す

る。

1、日本テレビは、謝礼要求がなかったことを信じるに足る理由であったと説明した。謝礼要求の有無は

本来、情報の真偽と根本的にまったく無関係のはずである。無関係の要因を適当に結びつけて警察や裁判

所が恣意的に判断すれば間違いなく冤罪が発生する。皮相的な尤もらしさの感覚で社会全体が同調するこ

との危険性において日本は遥かに限度を超えている。女性の訴えだからというだけの理由で痴漢やDVを

全面的に認めることなどがその典型例である。

2、岐阜県庁は番組の虚偽報道によって無実を確認するために通常の業務を妨げられ、職員の手間や労力

などにおいて損失を被った。それら損失は元をただせば岐阜県民や国民全体の税金に負っているものであ

る。よって筋論で言えば、岐阜県日本テレビに対して損害賠償請求すべきである。日本テレビは損害賠

償すべき道義的責任があり、またその経済的能力も有している。ところが岐阜県は絶大な社会的影響力を

有しているマスコミ資本と関係が悪化することを恐れて筋を通すことができない。これは地方格差に基づ

く不平等な癒着の構造である。

3、仮に岐阜県ではなく東京都や大阪府のような大都市であれば、今回の虚偽報道に対して敢然と日本テ

レビに対して損害賠償請求したかも知れない。裏返せば岐阜県は、“裏金”に対して前科のある力の無い

地方だから、日本テレビサイドに甘く見られてターゲットにされた可能性もないとは言えない。単に岐阜

県が被疑者不詳で刑事告発するような行動に出ることが想定外であったから、このような事態を招いたの

であろう。これは正に冤罪発生の常道パターンであり、弱いもの苛めの縮図であるとも言える。

4、常識的に考えれば日本テレビのような圧倒的な力を持つ大組織が、僅か1~2万円の謝礼金目当ての

男に騙されたと考えるのは不自然である。むしろ逮捕された男が僅か1~2万円のはした金で、日本テレ

ビに利用された見る方が自然である。しかし警察は日本テレビに刑事責任が及ぶような取調べを逮捕され

た男に対してはしないであろう。これは警察組織とマスコミの癒着関係を示すものである。

5、現に警察や検察組織の“裏金”摘発はタブーであり、大手マスコミが決して触れようとしない領域で

ある。また下手に内部告発しようとするものなら、三井環氏のように別件逮捕されることになるから恐ろ

しい。これは、冤罪についても同じである。警察組織との関係を重視しようとするマスコミは、大都市管

轄の冤罪摘発は明らかに避けている。TVドラマや映画などの興行における道路利用の許認可や、身辺警

護などにおいて世話になることが多いので、大都市警察を敵に回すことは出来ないからだと思われる。見

せかけの“正義”概念を共有しつつ大衆を支配、管理している点も警察と大手マスコミは共通点が多く、

組織としての性質がよく似ている。たまにテレビ朝日が警察の冤罪問題を取り上げるが、いつも高知県

どの地方都市が舞台となっている。

6、「バンキシャ!」虚偽報道問題の報道を見てもわかる通り、マスコミ各社は業界全体に累を及ぼすよ

うな危険性のある問題に際しては、互恵的におざなりな報道しかしないものである。「バンキシャ!」に

関して言えば、日本テレビはあくまで被害者であり、日本テレビの責任は一人の男に騙された被害者側の

責任範囲に留まるものであるという誘導報道に終始するということである。これはマスコミ内部の癒着で

あるとは言えないか。


前回の記事を書いてから、私の眠りは浅くなった。日本という国は外交的に弱腰すぎると言って批判され

ることが多いが、国内的には結構恐ろしい国なのである。外形的には共産主義社会主義国家ではないか

ら、よく注意してじっくり考えないと見せかけの正義に騙されてしまうことが多い。我々の市民生活は悪

魔の鋭い鉤爪によって、癒着と冤罪発生のシステムで裏側から強力に束ねられ、抑圧されているのであ

る。長引く景気の低迷も本当は目に見えない日本の悪魔的な管理システムに原因があるのであって、一部

の資本や権力とは無縁の我々一市民がもっと賢くなれば、物質的にも精神的にもはるかに豊かな生活を享

受できるはずなのである。と言っても日本の民主主義的な洗脳に慣らされた人々に何を訴えても空しいだ

けである。

空しいだけでなく、正直なところ私は恐ろしい。

生きることが、書くことが。