龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治家の本性

野田聖子議員の出産ドキュメンタリー番組を見た。一口では感想を述べられないが、とにかく生まれてきた子供の真輝君には何の罪もないのだから、しっかりと育てていただきたいとしか言いようがない。しかし母親である野田氏には正直なところ良い印象を持てなかった。むしろ嫌悪感に近いものすら感じられた。野田氏自身も番組の中で、批判されることが怖いと思った時期もあったと正直に述べていたので本当は、手厳しい個人批判はしたくないのだが、やはり一言、社会的な観点から言っておかなければならないという気持ちになる。先ず、子供が欲しいと言う気持ちは、もちろん理解出来るが、どうして養子を取らなかったのかということだ。番組の中では、野田氏と夫が共に40歳以上であり、正式に籍を入れていない事実婚であったこと(出産後に正式に入籍)、飲食店を経営する夫と代議士である野田氏が共稼ぎであるなどの理由で、養子を迎えることが条件的に不可能であると説明されていた。しかし、日本の養子制度には二つの制度があって、6歳未満の低年齢児を養育する“特別養子制度”では、養親に様々な条件が課せられるようであるが、年齢制限のない“普通養子制度”では、養子を斡旋する団体に登録し、紹介を受ければ、後は役所に届け出るだけでいとも簡単に養子縁組は成立するのである。国会議員の野田氏なら当たり前のように知っていることである。他国からは裕福と見られている日本であっても、交通遺児や災害遺児などの身寄りのない不幸な子供は相当数存在することであろう。そこまで子供が欲しいのなら、また経済的にも余裕はあるであろうから、卑しくも大臣経験まである政治家であるなら、そういう境遇の子供を引き取って愛情を持って自分の子供として育てるという選択肢は考えられなかったのであろうか。卵子の提供を受けて人工授精で血の繋がらない子供を産み育てるのと、6歳以上の養子を迎えるのでは、少なくとも政治家としての見地においてはまったく同様であると看做していただきたいものであった。もう一点は、50歳という年齢での高齢出産についてである。人工授精そのものは、胎児が障害を持つ可能性の高さに結びつくとは、言えないかも知れないが、高齢出産はやはり赤ちゃんの障害や疾患とまったく無関係という訳にはいかないであろう。ましてや野田氏は長年の不妊治療で子宮壁がかなり脆弱になっていたようである。当然、胎盤の機能も低下していたであろうから、臍帯を通しての胎児への栄養補給も十全に行なわれていたのかどうかはわからない。番組では真輝君の出産と引き換えに子宮摘出がなされたかのように説明されていたが、現実的には、受精卵の移植時には既に子宮は、ぼろぼろに近い状態であったのではなかろうか。もしそうであれば、臓器疾患の子供が生まれてきて当然であると、私は医学についてはまったくの素人ではあるが、やり場のない憤りを感じながら見ていたのであった。恐らくは、医者も当初は強く反対した筈である。どうせ血が繋がらないことに変わりはないのであるから、代理出産でも同じではないのか。真輝君が今後、無事に育って物心がつき、自分の出生と障害について理解できるようになった時に、母親である野田氏があくまで自分の母体で産むことにこだわったことの意味をどのように説明するつもりなのであろうか。誰のお腹の中から生まれてきても、真輝君が真輝君であることに変わりはないはずである。当然、別の可能性があったのなら、健康な身体で産んで欲しかったと恨みに思うこともあるはずである。
もちろん、こういう批判は母親である野田氏には、酷すぎるという見方もあるであろう。しかし私の率直な感想を言えば、昨日のドキュメンタリー番組を見ている限り、もちろん編集の仕方にもよるのであろうが、野田氏には子供を持てたことの喜びや母性、愛情は溢れるように伝わってくるが、自分のエゴで障害と疾患にまみれた子供を産んでしまった苦悩や悔悟の念はまったく感じられないのである。そこに少しでも、この子の過酷な運命は母親である私のエゴによるものだから、我が子と共に重い十字架を背負って生きていこうという思いが感じられれば、まだしも共感できる部分はあるのであろうが、画面を見ている限り、野田氏の表情は妙にあっさりしているというか、もちろん可哀想だと言って時には涙を流したりもするのだが、何かしらこの子の運命は、あくまでもこの子の運命であって私には責任はないと突き放しているようにも、私の目には見えたのである。そこには得体の知れない自己肯定が垣間見れるのであって、政治家という人種の本性は、何とグロテスクなのだろうかと私は思ったのであった。但し、繰り返すが、それは製作の編集にもよるのであろう。あのドキュメンタリーはあまりに野田氏の母性や我が子への愛情に焦点を合わせ過ぎていて、それ以外の母親としての複雑な思いや苦悩は意識的に画面から排除していたのかも知れない。母性と愛情があって、そこに濃密なヒューマニズムの気配が漂えば、それなりに商品価値が生じると計算されて製作されているのであれば、あまりにポピュリズムに堕した安っぽい映像であるとも言えるが、所詮、テレビとはその程度のものであろう。ただ、いかにもテレビ的な商業ベース思想の撮影を透かし見ても、やはり私は野田氏には、一人の女として、あるいは母親としての愛情や信念よりも、政治家としての暗い情念を感じ取ってしまうのである。傍目には大して意味があると思えないのに、血の繋がらない子供を無理やり自らの母体から出産することにこだわる執念や、子供が出来た途端にそれまで事実婚であった夫に野田姓を名乗らせて子供に野田姓を引き継がせようとする態度は、女とか母親を超えて、正に政治家そのものである。見かけや建前はどうであろうと、政治家としての情念に突き動かされているようにしか私には見えない。野田氏だけでなく、総じて政治家とは、特に国会議員は何とグロテスクな生き物なのであろうと思う。政党は異なるが、民主党の面々などは国民に対して嘘をつくことに良心の呵責などまったく感じていないように見える。だから平気で平然と嘘をつく。その時々で、自らの信念らしきものを表明しているようでありながら、また国益や日本の将来を危惧しているような素振りを見せているだけで、その実、政治上の力学や意味不明の情動に従って動いているだけである。そして理不尽な政策を美辞麗句で飾り立てながら、無力な赤子たる国民に押し付け、その結果責任までも国民に負わせようとする。当人たちは政治とは、そういうものだと思っているから、まったく悪びれるところもない。政治家とは本質的に本当に、妖怪のような人間である。永田町はベム、ベラ、ベロのような妖怪が集うところであろう。我々、国民は妖怪退散の方法を真剣に考えなければならない。薄っぺらなヒューマニズムでは何か物が売れることはあっても、人間の幸福には決して結実しないということだ。なぜなら、そこには妖怪の支配があるだけであり、本当の人間の心が存在しないからだと私は思う。だから、先ず、見せかけのヒューマニズムを否定しなければならない。つまりは赤ちゃんにリスクを負わせる高齢出産は止めましょう、経済力があって子供が欲しい高齢者は、6歳以上の養子を引き取りましょうということなのだ。