龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

フェミニズム不信

フェミニズムというものが、私にはよく分からない。よく分からないから、不信感を持っているし、まあ、はっきり言って嫌いである。前回述べた、野田聖子議員の出産に当てはめれば、フェミニズム的な感性とは、女性が高齢出産の危険を犯してでも、胎児が自らの母体で日々大きくなってゆくという無上の幸福感に対して、至上の社会的価値を認めるということになるのだろうか。その価値観は、個人的にわからないでもないが、一方で生まれてくる子供の人権と言うものもある。子供は母親の所有物ではない。母親との一体感の中から生まれてはくるが、肉体的にも精神的にも母親から分離独立してゆくところの一個の人間である。母親としての母性の幸福感よりも、新たな生命が健康な身体で生まれてくることに最善を尽くす責任に、より重要な社会的価値があると看做すのは当然ではないのか。必要以上に野田氏への個人批判はしたくはないのだが、フェミニズム的な風潮で母性の礼賛ばかりに世の中が傾きすぎると、障害を持って生まれてきた子供に対して一般的な世論は、こんな欠陥だらけの身体で生まれてきたのに、力強く生き延びようとする赤ちゃんの生命力に感動して涙した、みたいな訳のわからない賞賛ばかりになってしまって、肝心の赤ちゃんがこれからの人生で背負わなければならない過酷な苦難に対して、単にその子の運命で済ませてしまってもよいものなのか、社会制度の有り方には問題はないのかといった視点が、掻き消されるように危惧されるものである。フェミニズムとは、日本語で言えば女権拡張のことだから、その土台となるべきは普遍的な人権意識である。日本は根本の人権が守られているとは言えないのに、なぜかフェミニズムだけが遊離してのさばる状況があるから世の中がおかしな具合になってしまうのだと思われる。ともかく私はあのドキュメンタリー番組で感動などまったくしなかった。肝臓が体外に飛び出した状態で生まれ、心臓と肺をつなぐ動脈がなかったり、動脈血と静脈血を分離する心臓壁が形成されていなかったり、僅か1歳ぐらいで突然、脳梗塞に見舞われる姿に対して、ただショックを受けると同時に激しい怒りを覚えただけである。そしてその怒りの炎はまだ私の心中に燻っている。
人によっては、子育てで苦労するのは野田氏と亭主なのだから、あなたに批判する権利はないと言われるかも知れないが、私に批判する権利がないのであれば、私以外の誰も野田氏の行為を賞賛したり、正当化する権利もないということになる。批判と賞賛は表裏一体であるからだ。視聴者が批判も賞賛も出来ないものをTV局が制作する権利も、放映する権利もないし、そのような番組に広告費を提供する企業の権利もないということになろう。苦労するのが誰であろうと、生まれてくる子供は、児童虐待の問題でも同様だと思われるが、自分の子も人の子も同じだと考えなければ、世の中には皮相的なヒューマニズムが蔓延るだけで根本的な問題は何一つ解決されないものと思われる。ましてや野田氏は現職の国会議員ではないか。そしてその皮相的なヒューマニズムフェミニズムが深く結びついているように思えるから、尚更、腹立たしいのである。まあ人それぞれに考えはあろうから、何が正しくて、何が間違っていると線引きすることは難しいとは思うが、所詮、他人事だと思えば、誰かの心を傷つけかねない批判などせずに奇麗事だけで済ませていればよかろう。しかし他人の子も自分の子と同様だという視点に立てば、考えは変わって当然である。自分の子供さえ良ければと思っていても、我が子だけが、あるいは自分だけが幸福になることは有り得ない。幸福とはもっと根源的で、形而上的な問題だと思われる。日本は小さな国で、一つの考えや一つの風潮に全体が左右され易い風土だから尚更である。他者の苦しみを、それも無力な小さな子供の苦しみを我が身の苦しみのように思いやる心がなければ、そもそも人間は幸福になれないように作られているのだと私は考えている。しかしながら制度と国民の幸福は必ずしも合致するものではなく、むしろ背反することが多い。多くの大衆は現状の法体系に沿う枠内での正義やヒューマニズム、モラル、常識に縛られて生きているが、現在の日本のようにあらゆる分野で地盤沈下が進み、政治の無力化が決定的となっている状態では、国民の一人一人が旧来の思考や価値観に捉われず、為政者の立場で考え続ける習慣を身に付けないと、結局、自分自身が幸福から遠ざかる結果にしかならないものと思われる。要するに自分だけの個人的な立場を離れて、より大きな大局的な視点で社会を洞察しなければならないということだ。昨今の首相は、大局や大義などの言葉を多用したがるが、その実、自分のことしか考えていないことは歴然としている。真に大局的な大義を論じられる無名の国民が一人でも多く増えることのみによって、現況の程度の低い政治家を自然淘汰してゆくことができると言えるであろう。
話しを元に戻して、高齢出産の問題について言えば、日本が現在のように少子化で将来設計が出来なくなってくると、年を取ってでも子供を産みたいという女性の気持ちが希少価値のように尊重されることとなってくる。そうすると自然と、若くて健康な母体から産んでも障害のある子供が生まれてくる可能性はまったくない訳ではないのだから、飛躍して、高齢出産でも若齢出産でもリスクに大差はないという見方が一般的に罷り通ることとなってくることであろう。高齢出産が国策的に推奨される事態も有り得るかも知れない。もしそうなれば、それは非常に危険な傾向であると言えよう。そこにおいては生まれてくる子供の人権が軽視されている。適切な喩えかどうかはわからないが、泥酔状態で車を運転しても必ず事故を起こすとは限らない。素面で運転していても事故を起こす人間はたくさん存在する。だからと言って飲酒運転が正当化される訳でないことは言うまでもないことだが、違いは、飲酒運転は厳しく法律で規制され罰則が設けられているが、高齢出産を禁止する法律はないということである。出産年齢の上限を制限する法律を作るのが良いかどうかは私にはわからないが、たとえ法律はなくとも、いや法律がないからこそ、そこは厳然とした良識というのか、年を取ってまで子供を産むような自然の摂理に逆らう真似はやめとけ、みたいな声があって当然であるし、そういう声の方が私には良心的で真っ当であると思える。仮に私が野田氏の夫の立場であれば、絶対にあのような出産は認めないであろうし、どうしてもということなら離婚するであろう。野田氏にとっての政治家としての信念は、女性としての自然摂理に傲然と刃向かうことであったのであろうか。まあ、ドキュメンタリー番組の中で野田氏も他人に自分と同じような出産を勧めるつもりはないと言っていたが(当たり前のことだが)、あの手の女は一体何を考えているのかわからないから、次の選挙でも必ず立候補してくることと思われる。別に私は男女共同参画を否定するわけではないが、どうせ議員バッジを付けていたところで大したことなど何一つ出来ないのであろうから、有権者は結束して一票たりとも、次の選挙で“野田聖子”に投票すべきではない。野田氏は落選して政界を引退し、真輝君の看護に専念すべきである。また彼女にはその責任があるということだ。フェミニズムに洗脳されている人々にとっては、私のようなことを主張する人間はきっと、不倶戴天の敵ということになるのだろうな。いやな世の中だ。