龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

大人の自由研究

あの、これは子供の夏休みの自由研究ではないが、蝉について考えていて一つの仮説というか、自分の中では真理に到達したと思えることがあるのでご紹介させていただくことにする。テーマは、蝉はなぜ昼間には鳴かないのかということである。平地よりも気温の低い山上などではわからないが、街中では蝉(クマゼミ)は朝9時ごろまで盛んに鳴いているが、気温が上昇する昼間には鳴き声が聞こえなくなり、その後、朝ほど喧しくはないが夕方にちらほらと鳴いていたり、時には夜の10時ごろ鳴き声が聞こえたりする。蝉の発音メカニズムがどのようになっているのか詳しくは知らないが、あの小さな身体であれだけ大きな音を発しているのだから相当な体力を使っているのだと思われる。恐らくは蝉の身体全体が発音機のように共鳴して振動しているのであろう。よって気温の高い時間に鳴くことは体力を消耗して寿命を縮めることになるのかも知れない。だから気温の高い時間帯を避けて早朝に鳴くのだと考えれば、一応、理屈は通る。しかしである。ここからが重要だ。そもそも生物学的に蝉は何故、鳴くのかといえば、雄しか鳴かないことを考えれば雌に対する求愛行動であることは当然だ。そうすると、蝉の地上での生存時間は限られているので、早朝や夕方の気温の低い時間帯だけでなく、日中の炎天下(といっても大抵、蝉は木の葉に隠れているのだから)でも、我慢して鳴き続けた方が、雌を獲得できる確率が高くなるはずである。なら、どうして雄は昼間に鳴くのを中止してしまうのであろうか。これは私の想像だが、恐らく蝉の世界で日中の気温の高い時間帯に鳴いて求愛する雄の行為は、雌の蝉から見ればダサいと言うか、もてない駄目な雄ゼミの烙印を押されることになるのだと思う。「あら、こんな暑い時分に鳴いているわ。よほど雌に相手にされないのね、ああ惨めったらしい鳴き声だこと。いやだ、いやだ。」ということになってしまうのであろう。雄もそういう雌の心理(?)がわかっているから、昼間に求愛するような世間体の悪いことを本能的に忌避するのであろう。しかし、もし恥を耐え忍んで勇敢(無謀)に、昼間から堂々と鳴く雄蝉が現れれば、蝉の世間はどのように変化するであろうか。ほとんどの雌が眉(など無いが)を顰める中で、変わり者の一匹の雌が「私のために命を削ってまで、こんなに暑い時に鳴いてくれている。」と感動して、その2匹はめでたく結ばれるかも知れない。彼らは次代に自分たちの遺伝子を残すことに成功したのだ。そうすると他の雄たちはどのように考えるであろうか。最初の内は余裕を持って馬鹿にするように嘲笑していたであろうが、昼に鳴く雄が雌にありついたのを知ると、「このやろう、抜け駆けをしやがって。ならば俺も時間帯や気温に関係なく、鳴かずにはおれん。」ということになるであろう。そうすると堰を切ったように全ての雄蝉たちが昼間に鳴き出すことにならざるを得ない。一匹の変異的な行動が種全体の秩序を変えてしまうのである。しかし最初に昼間に鳴いた雄は雌を獲得できるかも知れないが、その他の雄蝉たちが昼に鳴く行動が常態化すると一体どうなるであろうか。そうでなくとも激しい生存競争があるというのに、全ての雄が気温の高い昼間に鳴くことになれば不要に体力を使い果たさなければならない環境のおかげで、その地域における雄蝉の平均寿命日数が大幅に短くなることになるであろう。一旦そうなると雄だけでなく雌にとっても、すなわち蝉という種全体が子孫を残すという観点から見れば明らかにマイナスとなる。よって結果的に、人間世界で言えば喩えは悪いが談合のように、蝉は気温の高い昼間に鳴くことに対して種としての抑制がかかるのであろうと思われる。大阪ではこの2~3日は、一時に比べれば少し気温が低いので午前11時ごろでも蝉の鳴き声が聞こえるが、おそらく分岐点は35度ぐらいではないのかと私は勝手に想像している。結局、この話しの中で私が言いたいことは、蝉だけでなく全ての生物は、生命という次元で見れば協調的な同調行動を行なっているのだということだ。そういう意味では、個体の突然変異や適者生存による進化論、または利己的遺伝子による動物行動学の説は間違っていると、私は確信している。文字通り利己的に自個体のことだけを、あるいはその個体に乗っている遺伝子だけが生き残る行動基準だけから見れば、過当競争で種全体が滅びることを避けようとするブレーキが作動する原理が考え難いからだ。もちろん表面的には過酷な生存競争が行なわれているのであるが、その底流では生命の同調的な秩序維持や変化への推進力が働いているのだと思う。そして、大きく変化する時にその機序はよくわからないが、全体的にそれも一斉に種の進化が起こるのだと思う。爬虫類の前足が変化して翼になり、空を飛ぶなどをいうことは正にそういうことで、突然変異と適者生存では説明し切れないと思う。そして何かしら仕組みはよくわからないが、生命の同調的な行動の中にこそ私は神の意志や力が垣間見られるのだと考えている。
とにかく蝉ですら自分のことだけを考えて鳴いたり、鳴き止んだりするわけではないということだ。それでは人間の世界ではどうであろうか。本来ならここで日本の政治に当てはめて、嫌味の一つや二つは言ってやりたいところであるが、論理が飛躍しすぎてもいけないので自制することにする。私もまた雄蝉と同じように鳴き止むべき(嫌味を言わない)時には鳴き止む分岐点をきちんと弁えているということであろう。と、まあ、そういうことにして今日のところはここまで。