龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

離婚の思想

芸能人の結婚や離婚には、関心はないのだが、俳優の高嶋政伸と美元の離婚訴訟については、私個人の離婚経験と似ている部分もあったので何となく気にはなっていた。どういう所が似ているかと言えば、男側が離婚を請求していて、女の方が頑として認めずに、裁判にまでなっているということであり、違う部分は高嶋氏には子供はいないが、私には息子が一人いるので離婚だけでなく親権の争いもあったということと、私の場合には、私と元妻の不和に端を発した親族間の民事訴訟も子供との面会交渉や離婚調停と同時並行に行われていたので、総じて言えば何の自慢にもならないが、私の離婚の方が高嶋氏のケースなどより遥かに泥沼であった。むしろ私に言わせれば、高嶋氏の離婚騒動など泥沼と言うに足らないものである。結果的に私の離婚訴訟は高裁まで行ったが、女性裁判官の説得もあって判決まで行かずに和解での離婚となり、私の要求通り、親権者が私で、元妻が監護権者となり、共同親権制度を模倣するスタイルが取られることとなった。離婚が成立して3年以上になるが、離婚しているので当然、別居ではあるが、私が子供の親権者であるので、私が所有するマンションで元妻と一緒に住んでいる息子にいつでも会うことが出来るし、月に1~2回は3人で食事にも行って息子の学校や塾、友達についての話しを聞いたりしながらのコミュニケーションも図れており特に何の問題もない。離婚して元妻はパートに出るようになったが、その仕事の愚痴を長々と聞かされることもあるが、概して言えば、現在では元妻と息子は精神的にも生活も安定を保てているようであり、私としても安心である。しかし離婚の調停や裁判をしていた4年前の当時は、元妻の精神状態も不安定であり、息子がストレスから病気になって入院したり、その付き添いに私と元妻が代わる代わる病院に駆けつけたりと本当に大変であった。それに比べれば俳優の高嶋氏のケースなどは、子供もいないのだから離婚に何の支障もないはずであって、裁判の判決が出ていること自体が異常というのか不自然なのである。本来、結婚も離婚も当事者同士で決めることであり、私のように裁判所という権力機関に仲介してもらわなければならない必要性があったとしても、最終的には誰の問題でもない当事者同士のことなのだから、本人が決断しなければならないことである。結婚が誰かの命令の元で行われるべきでないのと同様に、離婚も命令(判決)にはそぐわないということだ。純粋に法律的に解釈した場合にも、確か以前に芸能のワイドショー番組で、高嶋氏の離婚請求が認められる可能性は極めて低いなどと解説されている場面を見た記憶があるが、離婚の認定基準が最近、変わったのかなどと訝しく思ったものであるが、テレビの解説も随分、いい加減なものである。離婚についての法律上の基本的な考え方は有責主義と破綻主義の二通りであるが、昔は有責主義が採用されていて、有責配偶者からの離婚請求は認められないということになっていた。よって離婚したくない側の法的な拠り所は、離婚を請求している相手が有責配偶者であることを証明することにしかないのであり、DVがあったから相手が有責配偶者であるなどの主張がなされることが多い。しかし確かに本当にDVはあったかも知れないが、浮気ならともかく、DVがあったからこそ離婚したいというのであれば筋道は通るが、DVがあったのにどうしても離婚はしたくないというのであれば、少なくとも外面的には矛盾以外の何物でもないものであり、公的には認め難い主張である。むしろ本人自身が、仮にDVはあったとしても結婚生活を継続させる上で何の支障になっていませんと証明しているだけに過ぎないようなものである。もう一つの破綻主義については、現在の離婚訴訟でほとんど全面的に採用されている考え方であるが、どちらが悪いか、どちらに非があるかによってではなく、その時点で婚姻関係が実質的に破綻しているかどうか、修復可能かどうかを判断して決めるという基準である。所詮は夫婦間の揉め事に過ぎないものを、多大な時間と労力をかけてどちらが悪いとか、どちらに責任があるかなどの争いを延々とやり続けた上で最終的に権力に決してもらって、さて離婚かどうかを判断するなどという有責主義の考えは常識的に考えてもナンセンスであり、破綻主義に基づくのは当然であると言えよう。また裁判所が婚姻期間の日数における別居期間の割合を勘案するということも、夫婦が仲良く同居していた期間が別居期間よりも長い間は修復する可能性があるのではないか、つまり完全に関係が破綻しているとは言えないのではないかと便宜的に推定するところの破綻主義の流れに沿った考えであるが、今やこの基準すら古臭いというのか無意味になってきているように感じられるものである。もちろん何でもかんでも離婚請求を認めればよいというものでもないが、昔のそしてこれまでの日本では、あたかも親が子を監護するように裁判所が国家の正義や道徳を家庭に持ち込んで、悪いことをした方(有責配偶者)からの離婚請求は認められません、とか別居期間が相対的に短いから、あなたたちはまだやり直すことが出来るはずです、などと大きなお世話にも説教するような法慣例が大勢を占めてきたのである。そこにおいては、まったく個人の国家管理からの自立概念、自立意識は見受けられないものである。私の離婚の際にも大きな障害となった、それゆえに大変、離婚の成立に苦労せざるを得なかった原因である共同親権制度が日本に未だ認められていないことも国家が個人や家庭を管理下において自立させようとしない明治以来の官僚思考と深く結びついているのである。よって今日にあっても未だに、お上の道徳意識に訴えて、最後の最後まで自分自身の問題であるべき実情を無視してまで和解に応じようとせず、判決(要するに説教)に頼ろうとすることは個人の権利意識というよりも未熟さの現れであると見れるものであり、大人が最終的に取るべき態度としては、私は非常に恥ずかしいものだと思う。