龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治と犯罪の関係

前回の続きであるが、警察庁の作成した犯罪統計を眺めていると、非常に興味深い。ああ、なるほどと合点がゆく発見がある。参照した資料は、強姦についてのデータであったが、不謹慎であると言われるかも知れないが、これはこれで中々面白い。数字は政治やマスコミと違って、嘘をつかないからだ。そこで思うのだけど、このようにインターネットで一般公開されている資料をどれほどの人間が見て、それもちらっと見るだけでなく社会学的な視点で分析されているのであろうか。そういういう素朴な疑問を持ってしまう。恐らくは全国民の0.01%どころか、皆無と言ってもよいのではなかろうか。圧倒的多数を占める大衆だけではなく、マスコミや大学教授などの知的階級に属する層においても、熟考どころか瞥見すらなされていないような気がする。さらに言えば、法務大臣ですら見ていない(現実を知らない)のではなかろうか。きっと誰も彼もが馬鹿なのだ。阿呆でなければ生きてゆけない。こういう風にして世の中は、カラカラと回っていくのである。
さて、強姦致死傷の認知件数が、この直近データの10年間で半数に減少している事実について述べた。検挙件数は3分の2に減っている。さらに踏み込んで分析して見ると、面白い事実が浮き上がってくる。分析というほど難しいことではない。皆さんも元資料を参照して、よく考えていただきたい。(PDF資料)
先ず、「認知件数」とは何かと言えば、市民からの届出を警察が受理した件数である。つまり強姦に合ったと警察に通報された時点で、記録、カウントされる数である。それに対して「検挙」とは、警察が犯人を特定して、被疑者とし警察署に引致することである。特に強姦罪親告罪であるから、被害者自身が告訴しなければ、容疑者が検挙されることにはならない。ここで強姦容疑の認知件数における検挙件数の割合(検挙率)を見てみると、平成14年62.2%、平成15年63.4%、平成16年64.4%、平成17年69.5%と6割台であるのに、平成18年74.9%、平成19年78.9%は7割台に上昇し、平成20年83.8%、平成21年82.9%、平成22年82.4%、平成23年83.7%と8割台に跳ね上がっているものである。前回にも述べた通り、認知件数の総数では平成23年は平成14年との比較で半数に減少しているのに、検挙率では20ポイントも上昇しているものである。強姦罪を厳しく取り締まる方向に変遷してきたと見れば、聞こえは良いかも知れないが実態はどうであろうか。もう一つの指標として「起訴」がある。起訴とは言うまでもなく、事件を裁判所に提起することである。刑事事件においては日本の慣例で、ほぼ100%に近い確率で有罪になる見込みがなければ起訴されずに、不起訴処分となる。実質的には無罪である。この起訴率が資料の最後の方に記載されているが、強姦罪の起訴率では平成14年が64%であるのに対して、平成22年には47%まで落ち込んでいる。不起訴の理由は嫌疑不十分と告訴取り消しである。表を見ればわかるが告訴取り消しはさほど大きな変動がないが、嫌疑不十分が増加している。不起訴の内の嫌疑不十分の割合は、平成14年38.9%、平成22年52.1%である。嫌疑不十分とは具体的に言えば、通報者の供述が不自然であったり、矛盾していて公判が維持できないと判断されることである。つまり大雑把に言えば、最近の強姦容疑の特徴は、認知件数(被害の通報)が10年で半分まで大幅に減少していることと、通報があったほとんどのケースで容疑者の検挙に至っているが、その半数以上のケースが嫌疑不十分などの理由により不起訴(無罪)になっているということである。さてこれをどう解釈するべきであろうか。先ず警察にとっては、検挙数が実績となって評価されるものであり、その後の起訴、不起訴は成績に関係ないということを押さえておかなければならないであろう。ここまで説明すればお分かりかと思うが、認知件数が大幅に減少してくると、こう言っては何だが疑わしく不自然な被害届けも、警察は無理をして容疑者を検挙しているのである。だから不起訴の割合が増えてきていることも必然である。警察の判断はともかく、検察は裁判で恥をかくような事態は避けようとするものであろう。ここにおいて重要な認識は、強姦犯罪の絶対数が減少しているのであれば社会全体にとって喜ばしい事であるのだから、何も警察は無理をしてまで検挙数を上げることはないではないかと、市民感覚的にはそう考えられるし、常識的に言ってもそうなるべき話しである。だが実際にはそうはならないのである。単に警察の実績というだけの話ではなくて、これは一般的にはあまりにも社会通念とかけ離れた解釈なので、恐らく多くの人には受け入れられないと思われるが、国家権力というものは見掛けとは裏腹に、本質的な部分では犯罪に依存している所があるということなのだ。依存と言うと語弊があるかも知れないが、わかりやすく言えば、取り締まるべき犯罪がなければ権力は権力足り得ないというべきであろうか。もちろんそうは言ってもどんなに治安がよい社会でも現実的に犯罪が0になる訳ではないし、日本も近年では不気味で凶悪な事件も確実に増えてきているので、権力が犯罪に依存すると言う見方は全体的に俯瞰すれば不適切であるかも知れないが、部分的に見れば妥当ということはあり得る。そしてその一部分が性犯罪の領域ではないかということだ。と言ってもいくら何でも国家権力が性犯罪の増加をそそのかしたり、裏で画策することはあり得ないが、権力発動のハードルを低く下げたり、周辺の微罪領域に浸食するように拡大させることで、その代替的な効果は得られるということだ。ニュースの伝える素朴な社会観だけを信じている人には、到底受け入れ難い理屈かも知れないが、国家権力とは全てではないにせよ、そのようなメカニズムで動いている領域が決して小さくないということは強調したい。特に日本のように自主憲法も持ち得ていなくて、未だに外圧で右往左往ばかりしているような内政が常態となっていると、微罪で多くの大衆を投網に掛けるような法律や政策が、権力の根幹となって君臨する方向に流されやすい。そうしなければ権力の威信が保てないのだ。そしてそこにフェミニズムの主義や左翼思想などが絡んでくると、奇々怪々で何が何だか訳の分からない世相に陥ってしまうこととなる。それが正に今の日本の姿なのではないのか。そういう解釈の中で新しい法務大臣が打ち出している「性犯罪の厳罰化」方針を考えれば、彼女が何を、そしてどのような社会を意図しているか多少は見えてくるのではなかろうか。或いは何事かを意図するほどの見識も洞察も持っていない単なる馬鹿なのかも知れないが。日本の大臣は、日頃から何も考えていない馬鹿の割合が多いものである。いずれにせよ朝日新聞出身の法務大臣の言動には、注意と警戒が必要である。その内に、もごもご、むにゃむにゃと歯切れの悪い説明をしだした時には、多くの善人を微罪で型にはめる姦策が実行段階に移され始めたと考えるべきである。そしてその時こそが、自民党政権の終焉の始まりであると今から告げておく。