龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

常識の裏側にある日本の真相

死刑制度には日本の矛盾や欠陥が浮き出ている。一人殺しても死刑にはならないが、二人殺すと死刑になる。日本の刑罰では慣習的に死刑判決のガイドラインがそのように定石化されてしまっている。では殺人というものの罪の重さにおいて、殺害人数が一人と二人以上の境界上には、懲役刑と死刑のすなわち生と死の差異に相当する、いかなる種類の逸脱や背徳の基準があるのかと言えば、そんなことは誰にも答えられない。日本の司法は表層的な見た目の厳かさとは別に根本的な部分では、かなりいい加減な要素を含み持っていると考えられる。いや司法に限った話しではない。政治や報道も、或いは教育も押し並べて日本の国家作用は、中核的な所で実にいい加減なのだ。いい加減だからこそ死刑判決の二人基準のように、意味があるのかないのか誰にもわからないような線引きが既定化されて一人歩きすることとなる。法治国家といえば聞こえはよいかも知れないが、そこには一人の人間が世界や宇宙に対峙する人道上の正義とか倫理というものが根本的に欠落している。またその欠落を露呈させないためにこそ法律や情報などが巧妙に運用されている割合が、日本は他の先進国と比べてもかなり高いように私には思われる。中国や韓国、北朝鮮のような国と比べればまだしも優越はあるだろうが、それは比較対象先の選別が間違っていると言うか、その比較自体が意図的な大衆操作の一環なのである。いや内実的には日本という国は、中国や韓国などと政治的な民度で判断すればかなり近しいと言えるのではなかろうか。もう今や我々は日本とか韓国などという国家の枠組みを離れて、アジア人としての人間の価値やアジア人の人類の中における市民的覚醒度合いという観点に着目し、精励、向上していく必要性があるように感じられる。少なくともそういう意識を持たないといけない。わからない人には100年言い続けても分からないであろうが、アジアという限定されたエリアの中で日本が直面させられている現実は、たとえば日韓の慰安婦問題や歴史認識などは、あるレベルで見れば歴史的な必然性のもとで自然発生的に生じているのではなくて、常に政治的に作られて維持されているものである。そして重要な認識は、それらの政治上の作為はアメリカの分断統治とか世界的な秘密結社による陰謀によるものであるというよりも、日本の国自体が率先して政治的にそのような現実を呼び醒ませている側面が大きいものである。それも左翼とか右翼などという表面的なイデオロギーの対立とは何の関係もない領域で、日本の権力はそのような被虐的な現実に依存しているのである。鳩山由起夫氏がわざわざ韓国まで謝罪に行くのは彼の政治信条とは無関係に、単に日本の権力構造の要求に応えているだけのことなのである。ではなぜそうなるのか、なぜそのような精神構造に日本は落ち込んでいるのかと言えば、簡単には説明できないが、わかりやすく言えば日本の堕落とは、国益であるとか国民の幸福を実質的には度外視していて、支配者の論理だけで超国家的に横断して結びつこうとする力学が強く働いている点にあるということである。日本は戦争に敗北して70年経ったが、本質的な部分では一部の支配層に属する人間が日本の国家機能を都合よく利用しているだけであり、それは戦前、戦中、戦後と今日に至ってまで内実的には何一つ変わっていない。民主主義など実際にはとんでもない話しで、日本では市民とは去勢され、無力化されているだけの存在に過ぎないものである。もちろん表向きの建前はそうではないから、平時にはそれなりに取り繕われているが、何かがあったときや何か根本的な変化が起こりそうな時には日本という国の本性が現れる。これは何も今、流行りの安倍総理が推進する「戦争法案」について言っている訳ではない。その論争自体が洗脳そのものであるということがわからない人には、わかってくれと言うつもりはない。それは土台、無理な話しである。わからない人は、死んでもわからないのだ。もちろん政治とは嘘ばかりだからいつどうなるかはわからない。徴兵制が復活する日が来てもおかしくはないであろう。しかしそれでも敢えて言えば、全くそういう問題ではないのだ。少なくとも日本国内に平和が保たれている今の時代に既にもう本当の民主主義とは相容れない、決して市民が介入し得ない深層の領域で政治や報道が結託して、一部の支配者や管理者層に都合のよい民主主義の形を構築して、不動のものにしようとしていることが大問題なのであって、「戦争法案」がどうのこうのなどとは洗脳の一部であり、枝葉末節に過ぎないことである。これはノーベル賞の受賞者であるとか、これからノーベル賞を取る予定の人が何を主張しようとも、そういうことも本当は思想の対立とか一市民の正義などとは何の関係もない話しであって、単に日本全体を暗黒のように覆う洗脳支配体制に権威的な少数者としての立場から加担しているだけのことである。こういうことを言えば、多くの人に反感を持たれ、嫌煙されるであろうが、日本にとっては非常に本質的で重要なことだからいずれは直視せざるを得ないことである。もちろん戦争も日本の今の表面的な秩序が崩れれば、我々の世代で経験する可能性はあり得ることだ。よって市民が権力を監視し続ける必要性があるという主張は正論であり、否定できないことではある。しかしその正論が日本では、洗脳の道具として日常的に利用されているということも事実であり、その全体的な認識が出発点であると看做すべきなのである。日本の政治秩序はとてつもなく入り組んでいて、泥沼のような深みで硬直化しているのである。その認識がなければ、結局日本人は平時であろうと戦争下であろうと洗脳の海の中で溺れ死んでいくだけの運命である。信じられないかも知れないが、平時でも戦時でも日本という国の権力機構には一貫しているものがある。その正体の前では実は生命や真実や正義は何の価値も持ち得ないということである。平時であっても日本の権力の本性、本質は気をつけて見ていれば顔を覗かせていることがわかるであろう。たとえば以前に何度も記事で繰り返し述べたように、今年の5月に実施された大阪市特別区設置の住民投票の結果はインチキである可能性が高い。99%の人間には到底信じられないことであろうが、選挙という民主主義の根幹となるところで日本の政治はマスコミとグルになって平気で不正行為を行っているのである。またあまりに恐ろしいことなので詳しくは述べられないが、30年前の日航機墜落事故の真相も一般に報道されている内容とは大きくかけ離れているものであることは明らかである。そして知識人などと称せられているような人々も、いやそういう種族の人間こそが権力に加担して我々の目を逸らせようとしている現実を我々は知るべき時なのだ。