龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

東住吉放火小6殺人事件について

放火と自然発火の見極めは難しい。1995年に大阪市東住吉区で起きた小学校6年生の女の子が死亡した放火殺人事件で、燃焼実験により自然発火の可能性が高まったとして、母親の青木元被告と内縁の夫であった朴元被告の再審請求が認められ、20年ぶりに釈放されることとなった。
読売新聞と朝日新聞の現場の見取り図を見ている限り、確かに自然発火の可能性はあるとは思う。しかし実験で明らかになったことは、朴元被告が風呂場に接している隣の車庫に止めてあった軽ワゴン車から7リットルのガソリンを抜いて撒いて発火させたという自白証言が、検証実験では7リットルを撒き終える前に小屋が炎に包まれる結果となったことから矛盾していて疑わしいということであるが、7リットルというガソリンの量が争点になるのであればそういう判断となるのかも知れないが、それゆえに自然発火であるという認定は飛躍が大きいのではなかろうか。7リットルといえば、家庭用の石油ストーブの給油タンクの容量ぐらいはあるであろう。それだけの量を狭い車庫内で夏場に撒いて、すぐ近くで風呂釜の種火が燃えていれば、全量を撒き終える前に気化したガソリンが種火に反応して火事になることは当然であろうが、弁護団の主張では自然発火の原因は軽ワゴン車の給油口から自然に漏れたガソリンであるとしているのである。また同型の4台の車の所有者から、給油口からガソリンが漏れるという情報提供があったということであるが、果たして給油口から漏れる程度のガソリンが気化して、安全防御のために金属製のカバーで覆われている種火に反応するであろうか。弁護団は数百ミリリットル単位で漏れると主張しているとのことであるが、車のガソリンは給油口のキャップと車内で操作して開ける外蓋の2重構造で外に漏れ出さないようになっているはずであるのに、どうして自然発火が裏付けられたこととなるのか非常に不可解である。
私の想像であるが、警察は恐くはほとんど無理矢理に自白をさせて7リットルのガソリンを車から抜き出して放火という筋書きを作り上げたのであろうが、それが再審請求の段階に至って弁護団と検察側の燃焼実験によって、7リットルという分量の信憑性が否定されることとなって、両被告は冤罪の可能性が強いものと看做されることとなったのであろう。しかし客観的に見れば、7リットルが警察がでっち上げた嘘であったとしても、車から自然に漏れたガソリンが原因で自然発火という説も釈然としないというか、常識的に考えれば疑わしいものである。放火が目的であれば別に7リットルでなくとも1リットルでも2リットルでもとにかく家に火がつけばよいのである。また犯人は自分が安全に逃げ出せる余裕を当然考えるであろうから、大量に撒かなくとも少しづつ小出しにガソリンを火元付近に掛けて、火が大きくなる直前に逃げ出すのが、そのような状況における通常の行動パターンとして推測されるのではないのか。よって7リットルが否定されたからといって、それでいきなり冤罪、無罪という流れは私はどうなのかと思うのであるが。それから今回の事件は二人の人間が被告となっていたのである。最近の警察の取り調べは極度の自白偏重で科学的な合理性などを度外視した無茶苦茶なものになってきていることは事実としてあるのであろうが、それでも私の希望的観測かも知れないが、さすがに二人の無辜の人間を(一人であれば許されるというものでもないが)重大事件で無期懲役刑に処するほどに悪魔的で非情な捜査や取り調べはしないのではないかと、いやそう信じたいのである。恐らく二人の元被告が共謀して放火をしたと信ずるに足るだけの心証というか、警察、検察側の良心、正義があったはずである。そういうものも存在しないままに警察が、犯行のシナリオを適当に作り上げていたのであるとすれば、日本は警察や司法そのものの在り方を根本的に問い直さなければならない時期に差し掛かっていると言えるのではなかろうか。当時の詳しい状況がわからないのではっきりとは断言できないが、私の勝手な推測では今回の事件は、風呂釜の何らかのトラブルによる自然発火という可能性は考えられるが、そうでなければ放火だと思う。車の給油口からガソリンが自然漏出して気化、発火ということは有り得ないと思う。ともかくも、冤罪も放火も共に絶対に許してはならない。