龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

民主主義と信仰の関連について

何らかの組織や団体への社会的な帰属が特定の政治的信条と結びつくことは当然ではあるが、世論形成の過程において、その信条や主張の背景が明確に示される場でなければ、社会全体の民意の有り様が歪められたり誘導されることとなるだけで、延いては民主主義の無力感や形骸化の要因とならざるを得ないことは一つの必然である。新聞やTVなどの権威的な情報と比べて、インターネットの情報空間に問題があるのだとすれば、著作権だとかコピペなどというよりも私はそういうことだと考えるものである。以前からネットにおける匿名性の問題が指摘されてはきたが、個を特定する必要性は自らの発言に対して責任を持つなどということもあるであろうが、主に誰かに対する脅迫であるとか名誉毀損などが問われる内容であるときにその必要性が生ずるものであって、ネット空間を社会全体の民意を政治に反映させ、民主主義を発展させる道具として考えるならば、実名などという単なる記号よりも個の発言の社会的バックボーンとなっている帰属性が明確に示されることが不可欠であると言えるのではなかろうか。このようなことを言えば、多くの人はインターネットの書き込みなど元々公衆便所の落書きのようなものでそこまでご大層に祭り上げるものではないと笑うかも知れないが、今や新聞やTVなどの権威的とされる媒体こそが国益や国民全体の真なる民意を無視し、大衆を洗脳するご都合主義的で利益誘導的なる強力な統治機関の一部と堕している現状にあって、草の根的ではあれネット空間をその対抗手段と位置付けなければならない必要性があるのだから日々その地位を向上させていかなければならないものと言える。
私個人に関して言えば、自らの主張内容と関連する何らかの社会的な帰属性があるのであればはっきりとそう断りを入れて述べることになるであろうが、残念ながら私にはそういう組織的な帰属が皆無なので純粋に個として発言しているだけである。しかし仮に私に何らかの政治的な帰属が存するのであれば、たとえば共産党員の一員としてこの件に関してはこう思う、だとか新聞社に勤める社員の立場とすればとか、公明党を支持する創価学会員の一人としてなどの背景を明確にすると思うし、そうすることに何らかの支障があるのであればそもそも何も言わないで黙っていることであろう。なぜならそうでなければフェアではないし、自らの発言内容の価値を自ら貶めていることと同じだと私は考えるからである。それでは帰属ではなく個人名に関してだけでも明らかにすればよいではないかという意見もあるであろう。その件に関しては私には個人的な特殊事情から大いなる葛藤があって今も迷っている。私自身は私の個人名を出すことになど何の抵抗もないし、むしろ本心ではそうしたいぐらいなのであるが、6年前に離婚が成立した元妻が今も私の姓を使っていて同じく私の姓である息子と二人で生活し、元妻は世間的(居住しているマンションの住人など)には今も離婚していることを知られないように隠しているというか黙っているのである。元妻の立場では離婚してまで元夫の姓を名乗っていて、元夫が所有するマンションに住み着いているのは世間体が悪いと考えているのかどうかその辺はよくわからないが、離婚の事実が公になることが息子に対する今後の悪影響と考えている向きもあって、息子自身も母親に同調して離婚していることはできるだけ言わないで欲しいと私に言っている次第なのである。このブログ記事の存在など元妻も息子も知らないし、また今後とも私は言うつもりはない。アクセス数から考えても偶然にはわかりようがないものである。私とすれば、離婚後の共同親権であるとか(因みに私が息子の親権者である)、子供の安全や福祉の在り方についての主張が、自らの表現上の重大なテーマでありまた極めて公共性の高い問題であることは明らかなので、そのことについては自らの体験を踏まえて声を大にして訴え続けたいのであるが、そういう状況の中で私という個人が特定されるように実名を出すことについては、元妻のことはともかく息子の気持ちを考えると、たとえわからないからと言っても見えないところでそのように個人的なことをネタに社会に向けて主張、表現することが非常に後ろめたいというか、憚られるのである。そういうことで迷いはあるが私は個人名を表記はしていないし、また息子が成長して今や中学3年生になり、小学生のころはともかくも子供が大人に近づくにつれ当人の気持ちをより尊重してあげなければならないことは止むを得ないので、私としてはその内容に関して述べること自体からも遠ざかっている次第である。但し私の傾向性から考えれば一旦、スイッチが入ってしまうと一気にバーっと書いてしまうところがあるので今後はどうなるかわからない。それに私は個人名を表記してはいないが、政治とつながりが深い一部の組織や団体は(具体的にはマスコミや警察、宗教団体)は私の名前や身元を把握しているのである。そしてそのことを私は知っている。なぜだと問われてもわからないとしか言えないが、政治の問題を先鋭的(とは必ずしも私は考えていないが)に述べているとある程度は緩やかにではあれ監視対象にならざるを得ないということなのであろう。程度の差はあれどもそれは中国であっても韓国や日本であっても変わらないのだと思われる。別に私は捕まるような悪いことはしていないし、基本的には監視されているという状況は、敢えて好意的に解釈すれば見守られているということも可能なのでほとんど気にはしていないけれど、それでも普段から身の回りのことについては用心深く身を処しているつもりである。目には見えなくとも彼らの気配は常に感じられているからだ。そういうことなので私の言語的な表現活動ということに関して言えば、その上に個人名を出すことの特段の必要性が感じられないということも理由としてはある。
そういうことはともかくも、日本の民意と民主主義の関係性を全体的に考察するならば、やはり思想や主義の帰属性は無視したり軽視できない重要な要素であろう。ところが日本の現状ではそのような分析とか意識付けはほとんど全く行われていない。行われていないどころか、意図的に有耶無耶にごまかされて特定の集団の意見や考えがあたかも国民多数の考えであるかのように情報空間が覆われることが多い。一部の人間の利益が、いつの間にか国民全体の利益のようにすり替えられて決定してしまうものである。それは突き詰めれば日本の民主主義というものが結局は、本当の民主ではなくそれらしく設えられて作り上げられた虚構でしかないという事実に行き着くものである。そういうことも踏まえて憲法改正、自主憲法の制定は必要不可欠なのであるが、単に制度上の瑕疵の問題ではなく、事は国民全体の意識改革を要することであるから、日本に本物の民主主義を打ち立てるということは並大抵のことではないのである。ローマは一日にしてならずとは、正に日本の民主主義についてこそ当てはまる箴言だ。しかしその方向性に向かって一歩づつでも進んでいかなければならない。そういう文脈で見れば、公明党を支持する創価学会員の主張(個別の内容を指摘しているのではなく一般論である)は、偏見だと言われるかも知れないが私のこれまでの印象で見れば、ネット空間においては自らの帰属を示さずにあたかも中立性と客観性を装って、公明党の政策を擁護したり、反対する意見に批判を述べ立てるものが多く見受けられ、原理的であるとは言わないが、宗教団体特有の無前提的な同一傾向であるとか、柔軟性の欠如、盲目的な志向性などが垣間見られ部外者から見れば不気味に見えることが多い。もちろん例外もあるであろうが、たとえば創価学会員であっても公明党の政策を公然と批判する人も中にはいるかも知れないからその辺はご容赦願いたいが、それでも創価学会員であって公明党に投票しないという人間はいないのではないのか。そういう政党が自民党という大多数の民意によって選択された政権の中に位置づけられていることは、私は日本の民主主義の成熟とか進歩という観点から考えれば弊害でしかないと思う。信仰心と政治は別物なのである。信仰心に裏付けられた政治組織が権力を掌握すれば、それは表面上はともかく本質的には国家神道とかイスラム原理主義のような性質に向かって民主主義の形骸化しかもたらさないと私は考える。自民党に投票した人間は、公明党に投票した訳ではないし、必ずしも自公の連立体制を容認している訳ではない。自公の連立は単なる数合わせで、国民全体の民意を公明党の独自性の中で雲散霧消させているだけではないのか。もちろん宗教団体が政治的な信条を持ってはいけないとは言わないが、そうであれば公明党と一体化している創価学会という組織はもっと日本の民主主義の発展に寄与するような組織性へと自己解体され、再構築がなされる必要性があると考えられる。何かしらの社会的なタブーとなって批判を許さないような団体は、民主主義の社会システムと根本的に相容れないものであることは明らかである。しかし自民党も過去に下着泥棒を繰り返していた経歴を持つような人間を大臣にしているぐらいのレベルだから、このような「難しいこと」を言ったところで全くの無駄なのであろうが。何を言っても虚しいだけである。