龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

悪人の悪業政治

真実を追求する表現の自由を抑圧する動きがあるのであれば、遺憾なことであり、看過することはできない。そもそもインターネットにおける表現活動の意義や価値がどういうところにあるのかと考えるに、新聞やTVなどの一定の権威化のもとで広く社会に一般化され浸透している各種の情報が、真に国民や人類にとって有益であり正義の名のもとに恥じないものであるのかについて疑いを持たざるを得ないという状況が存在し、その危機感に対して人間が本来、有するところの真実や正義を求める内発的な衝動を権力の息が掛かった定説や通説から距離を置いて表現したり、疑義を呈する唯一の場であるところにあるのであって、そういう声や心をサイトを運営する側のプロバイダが、検閲の上で内部規定に抵触するなどと、通常であれば問題にされないような些事にかこつけて圧力をかけたり閉鎖に追い込むようなやり方は、私は人間そのものや人間の良心の否定であると考えるものである。既成の社会秩序に対して、決して猛毒にならないように、そして許容限度を超えた動揺を市民に与えないように巧妙に管理され、方向付けられた情報に必要以上の疑問を持たず、誰もが信じているであろうことを自分もまた同じように信じて社会とのつながりを保ち、それ以上の思考は一切放棄して生涯を終えようと慎ましく生きている多数の人々を私は否定することはできない。なぜならそれが人間に共通した人間らしさというものの本然の姿であるように考えられるからである。しかしである。国民のそういう人間らしさを、静かで安定した心の平和を、良識的な思考放棄を、常に全体として利用し、悪用しようとする政治権力や政治に結びついた大企業の操作を私は許すことが出来ない思いである。なぜなら今の日本にあっては、多くの日本人にとっては、その「良識的な思考放棄」ゆえに、到底信じられないことであろうが、既成の社会秩序の方が、つまり政治権力の土台の方がコペルニクスの転回のような世界がひっくり返る価値転倒で、文字通り大多数の人間の「命」よりも大切に守られることに相成っているからである。もっと言えば、日本の政治は国民の命を守るどころか、むしろ日本人の命を貢ぎ物のように平然と差し出しているものである。信じる、信じられないは別としてこれは何も今に始まった話ではない。戦前、戦中から、終戦を経てもある一定の権力レベルの層においては一貫してそうなのだと考えられる。見せかけの情報を信用してはいけない。日本の政治は、日本人の命のことなど歯牙にもかけていないし、不条理に死にゆく命を救おうなどという気持ちを微塵も有していない。事の真実や真相などには、ティッシュペーパー1枚の重みも価値も認めていない。そんなことにかかずらっても、自分の利益になることは何もないからである。私が言うところの自民党の「悪業政治」とはそういうことを指すものである。人それぞれに考えはあるであろうが、私が確信を持って言い得ることは、政治家という人種は、一般的な国民が想像しているレベルを遥かに凌駕した「悪人」である。いやしくも選挙で選ばれているのであるから正当性があるとか、そういうレベルの話しではない。日本において選挙とか民主主義と言う形式は、表面的な虚構なのであって、本質ではないのである。
何を言っているのかわからないから、もっと具体的に述べよという声もあるであろうが、どうすべきであろうか。これを具体的に述べてよいものであろうか。仮に述べるとするのであれば、どのようなスタイルで述べるのが、よいのであろうか。それとも新聞やTVにならって沈黙すべきなのか。私は今、迷っているのである。いや、これまでもずっと迷い続けてきたのだ。