龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国益なきイメージ政治の顛末

日本維新の会が国政において議席数が伸ばせない理由は、希望の党と同じである。既存の自民党政治に対してはっきりとした明確な対立姿勢を示さないままに、第二保守みたいなカテゴライズの位置づけでいざ選挙で自民党の候補者と戦ったところで、有権者のイメージとすれば第二保守というものは要する「亜流」なのだから、亜流が本流を凌げる政治ができる訳がないということになるものであって、その判断は正しいといえる。マスコミは常に大雑把で化石化したようなイデオロギーの対立図式を維持しようとするから、保守対リベラルのような構図になってしまって、その結果訳のわからない保守から排除されるだけの集まりが、逆に一定の存在意義を付与されなければならない状況を招き議席数を増やすことになるのであるが、それはある意味では民意というものの良識的でやむを得ない反応ではあるが、あくまでも消極的な選択に過ぎない。国政というものが国益を追求するものであれば、保守というカテゴリーだけで甘んじていればよいものではなく、国益を追求するための具体的な方法論であるとか、新しい政治の意識や思想の在り方であるとか、政治の善悪をどのように評価するのかとか、或いは政治と情報の関係性というものを考察して民主主義を高進させていくには現状の何が問題になっているのかということまで踏み込んで、自民党政治に鋭く激しく対決姿勢を示していかないことには、有権者は第二保守を選ぶ理由がないというものである。第二保守という分類分けもイメージ誘導の観はあるが、政治家や政党そのものが漠然としたイメージに頼っただけのスタイルで自らの存在価値があるかのように錯覚しているのだから自業自得である。このように見ていくとよくわかることであるが、日本の政治というものは100%ではないが半分以上はその時々の雰囲気やイメージだけで動いているのである。特に非自民党系の政治家や政党が雰囲気やイメージを追及する傾向性が強すぎるところが反対につまずきの原因になってしまって、自民党に本格的に対立し得る政治がいつまで経っても生まれてこないのである。政治家の最大の過ちと悪徳の根源は、全ての国民をイメージと雰囲気で騙し続けることができると深く信じ込んでいるところにある。しかしそれは間違っているものである。一時的には騙すことはできても、いずれは化けの皮は剥がれてくるのである。それがいつ剥がれるかということもあるが、要は嘘の耐用年数ということであるが、いずれにしても政治と国民がこのような騙したり、暴いたりを延々と繰り返していても結局は不毛の構図なのであり、国益を追求する政治には転じ得ないものである。しかし日本の政治スタイルはその時々の雰囲気やイメージで国民の判断を歪めたり、誘導したり、操作するという地点からいつまで経っても離れることが出来ないでいる。だから本質的には政治のための政治と、マスコミのための情報が維持されているだけで国民不在の性質はどこまでも不変なのである。そういうことの本当の原因を深く追及していくことが私は学問であり、知性の住処であると考えるものだが、日本には残念ながらタレント化されていて管理されている言論しか情報空間には見当たらないものである。これは正しく真っ直ぐに世界を見ようとする者は孤独な変人、或いは狂人であらねばならないということでもある。