龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本人よ、権力と情報に対峙せよ。

別に言い訳するつもりもないが、前回の記事で日本の真実を真正面から見据える精神を持った人間は日本で私一人ではないかと思うと述べたが、それは修辞上の表現であってもちろん私一人ということはない。では何人かとなると、そんなことはカウントできることではないので分かりようがないが、理知的、常識的に推測しても、アドバタイジング(広告活動)、コマーシャリズム(商業主義)、イデオロギー(定型化された思想)と無関係に日本の真実を見通す志向性のある精神を有した人間は、日本に1万人もいないと思うのである。数千人のレベルだと思う。数千人といっても8千人や9千人ではなくて、私の実感で言えば多く見積もっても2~3千人なのである。いやもっと言えば千人いるかどうかも怪しいような気がする。仮に3千人としても、日本の人口が約1億2千万人で、その内の3千人ということは、比率は0.0025%なのでほぼ0みたいなものである。だから私一人だと言ってもそれは決して誇張ではない。また自慢するつもりもない。希少で貴重な絶滅危惧種のような存在だから無視するなとか、敬愛の念を持って接しよなどと要求する気持ちはない。ただこれまでの私の人生を振り返ってみると、そういう世俗的な気持ちも少しはあった方がもっといい人生が送れたような気がしないでもないが、今更後悔したところで手遅れである。それに生まれつき備わっている性格や、徐々に身に付いてきた精神性というものはそう簡単に変えられるものではない。だから世の人々が無視したいのであれば勝手に無視すればよいのである。私だって1円の得にもなることではないし、日本の100%の意識に立ち向かうような内容の記述を続けることは辛いということもないが、決して気持ちのよいものではないのである。正直に言えば誰か代わりがいるのであれば代わって欲しいという気持ちだ。本当はこのような孤独な世直し運動は引退したいのである。しかし私の代わりがいるのかということだ。あまり挑発的なことは言いたくはないが、純粋に自分自身の目と精神で世界に立ち向かって根源的な矛盾や問題を咀嚼、解釈し、それらを魂を通じたオリジナルの言葉で伝えるということは誰にでもできることではない。私の見るところではあるが、真に日本を変革していく起爆剤となる静かで氷のように冷たい言葉というものはどこにも見当たらないのである。だから自分が1億2千万人の内の、2千人か3千人の一人であるのならば、孤独であろうと無視されようとも日本社会に向けて、氷の言葉を投げかけていく以外に道はないという思いだ。

もちろん思想や信条というものは人それぞれである。独善的に自分一人が正しくて崇高な人間であるなどと全く考えてもいない。相対性の観点から見れば、世界が真っ直ぐなのであれば、私が歪んでいるのである。自民党の政治が正しいのであれば、私の物の見方や考え方が間違っているのである。マスコミが偽善者でないのであれば、私が偽善者なのだ。しかしこういうことは言えるのではないか。たとえば共産党員であれば共産党の思想がある。創価学会員であれば、創価学会としての共通した政治への見方や公明党に対する支持がある。朝日新聞社の社員であれば、朝日新聞的な偏向性などというと反論されるであろうが、特有の政治的見解を有している。それらのどれが問題があるとか、間違っているなどとこの場で言うつもりはない。皆それぞれ自分が正しいと考えることを信じていればよいのでろう。しかしそのような大組織の政治思想なり信念というものは、時代背景や世界的な政治潮流と共に変化してゆく性質のものではない。ある部分では原理主義に通ずる要素を内在しているものである。よって国や社会が無軌道に変化していくことを抑制するブレーキや重しにはなるのであろうが、国家や国民意識が本当に変化しなければならないような状況を迎えている時には、そのような組織の原理主義性は、政治を取り巻く環境の変化に柔軟に適応したり、準備することの妨げにしかならないのではないのか。これは何も憲法改正のことだけを言っているのではないが、共産党朝日新聞が頑なに憲法9条を守ると主張する時には、外部的な目で見れば憲法9条を守っているのか、組織存続のアイデンティティーとなるイデオロギーを守っているだけなのかわからないところがあるものである。ところが日本では、他の国でもそうかも知れないが、政治性の強い組織や圧力団体などに所属しない大多数の国民の意見や感覚というものが、無党派層という括りで低く見られる傾向性があるように思われる。低く見るとは具体的にはどういうことかと言えば、情報操作や洗脳の対象ということであって、主要なマスコミの論調もそうであるし、政治も口先では国民的議論が必要などと事あるごとに言ってはいるが本音の部分では末端の国民の政治意識を高めようなどとは露も考えてはいないはずである。なぜなら国民の政治を見る意識が高まれば簡単に騙せなくなる事態を招いて、政治家の自己保身上、非常に都合が悪いからである。それゆえに政治は常に末端の国民を情報弱者に押し留めようとするのである。情報弱者であるからこそ国民は簡単に操作され、洗脳されるのである。そして権力者や為政者はその常套手段によって権力や秩序を掌握しようとするものである。しかし日本という国家が、この先少しでも政治的に進歩して、民主主義の力を発展させようとするのであれば、一部の組織に属している人間ではなくて、大多数の無党派などという分類に区分けされている人々の意識や認識力を高めていかなければ話にならないというところが課題として大きいと考えられる。そのためにはアドバタイジングやコマーシャリズムイデオロギーとは無関係の国民が、マスコミの論調や政治の操作に対して真正面から向き合い、対峙するというプロセスを経過しなければならないと私は考えるものである。100年単位ぐらいの時間軸で俯瞰すれば日本の政治は今、そういう時期を迎えているようにも感じられるものである。それが1億2千万人もの人口がいて、そういう精神性のある人間が3千人ぐらいしかいないということであれば自由主義の先進国家とすればあまりにも嘆かわしいことである。これはマスコミが情報操作によって国民意識を押さえつけているところの要因も大きいのではなかろうか。

一例を上げれば先日の選挙速報の特番においても、朝日放送がマンネリ化していて見るに耐えないような「朝まで生テレビ」を放映していた。私はチラッと見ただけであるが、お笑いタレントを一人コメンテ一ターとして出演させていて、若者や視聴者に媚びるようなあざとい番組構成のやり方にそれ以上みる気もなくすぐにチャンネルを変えたものだが、ネットの情報によればその放映中に今回の選挙結果について、「野党が酷過ぎる」との視聴者の声が紹介された途端に、司会進行の田原総一郎氏が番組の進行を止めて激怒したとのことである。私は元々田原氏に対しては、人の話しを最後まで聞かないで途中で遮っては自分の意見や見解を押し付けるようなことを平気でするような人物なのでこれまでも嫌悪感しか感じていなかったし、まともにその主張内容を聞けるようなものでもないと考えてはいたが、視聴者の野党が酷過ぎるとの率直な感想に対してまで激怒しているようでは、あまりにも哀れであるというか滑稽でもある。まあご当人は年齢的な問題もあって、感情を抑えることが難しくなってきているのかも知れないが、そのような人物にいつまでも政治討論番組の司会をさせ続ける放送局の姿勢に、私はマスコミと国民の関係性というものが如実に表れているような気がしてならないものである。国民的議論とか視聴者の意見などと言えば、いかにも民主主義的で聞こえはよいかも知れないが、実際はそういう体裁の下でマスコミのイデオロギーを末端の国民に受け入れさせる運動なり広告をしているだけではないか。そのような国民を見下したような番組を公共の放送を使って延々と垂れ流すなと言いたいものである。有名人や知識人が出演して論じているからと言って、我々末端の国民は何も無条件に受け入れたり、尊重しなければならないということではないものである。そういうことも含めて一人でも多くの人に権力と情報のあるべき姿というものを追及していただきたいと願うものである。