龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

情報を読み解く精神性の有無

大きなお世話かも知れないが、政治やマスコミの言うことを額面通りに受け取っていると、最早、自分の命すら守れないよ。もうそういう段階に突入しているから。インプットした情報は、頭の中で翻訳するように咀嚼しないと。何で政治やマスコミは今、そういうことをそういう風に力説するのかと。こういうことは日々の習慣であり、訓練だから。それを全然やっていない人間と、毎日やっている人間で比較すれば1年間だけでも相当な差が生じるということだ。情報を自分なりに解析する能力がない人間は結局、多数に寄り添うことしか出来ないのだよ。多数の領域が安全地帯だと信じ込んでいる。コロナのワクチン接種みたいにね。もちろん自分なりに情報を解析するといってもその結果、得られた見方や見解が正しいとは限らない。独りよがりの独断に陥る可能性は常にある。しかし何でも同じだと思うけれど訓練として継続し続ければ、それなりに精度は上がっていくであろうし、何よりもそういう面倒なことを怠らずに継続するという姿勢が精神となって醸成されていくであろう。一つの事象に対する読みや解釈が正しいのかどうかということよりも、それは個別に見れば正しいことも間違っていることもあるであろうが、その根底にそういう精神があるのかどうかということの方が生きていく上では大切だと私は思うけれどね。生きていく上で大切だということは、究極的には自分や自分の家族の命を守れるかということであり、それが今のコロナワクチンで問われているようにも感じられる。生き残る上での精神性の有無が選別されているのだよ。

具体的に私の情報リテラシーを例示すると、今、ワクチンが不足していて自治体の要望に応えられていないと報道されていて、河野大臣が何やかやと説明しているようであるが、私はこういう風に、こういう可能性が高いのではないかと考えている。報道の額面通りに不足しているなどということは考え難いことだ。不足しているのではなくて、恐らくはワクチン接種直後に死亡する人間の数が当初、想定していたよりも遥かに多くて、予定通りに配給することにびびり出して来ているのではないかと。誰がびびっているのかと言えば、政治ではない。厚労省だ。厚労省の本音は、加藤勝信官房長官の「俺は射たねーよ」記事が掲載されていた週刊新潮の11月26日号にもこういう風に伝えられている。

厚労省の幹部たちも一様に“ワクチンを射つほうがリスクは高いでしょ”と話します。彼らの頭にあるのは、2009~10年にかけて新型インフルエンザが流行った際、ワクチンを接種した133人が亡くなったこと。五輪を開催するためにもワクチンは必要だが、こと日本人は死亡率も低いので、効果がわからず副作用が出るかもしれないワクチンは、必ずしも必要ではない、というのが厚労省の本音でしょう」

ということである。コロナのワクチンも100人超の死亡数は見込んでいたのであろうが、もうすでに500人を超えている。このペースでどんどんと死者数が増えていくことに厚労省が尻込みし始めてきているのだ。政治やマスコミは事実を曲げて国民に伝えることを屁とも思わずに何の良心の呵責も感じていないので、千人死のうが、一万人死のうが関係ない、因果関係を否定するか、関連性は不明であるとでもしておけばよいとイケイケで煽り立てているのであるが、実際、また厚労省の発表はこれまで政治の指示でそのように説明されて来ているが、官僚は政治家やマスコミなどとは違って、基本的には真面目で、嘘をついたり真実をねじ曲げたりすることに対する心理的な抵抗感が強い人種なのである。よってさすがにここにきて今のままではまずいのではなかろうかと厚労省の幹部が政治に諫言し始めてきて、政治、マスコミ連合との連携が崩れてきているのではなかろうか。それで政治はやむを得ずに国産のワクチンが出来るまでの時間稼ぎに現在庫の流通をストップさせているのではないか。国産のワクチンが果たして安全かどうかは別問題である。いずれにせよ私にいわせれば政治やマスコミの性善説を信じ込んでいる大衆は哀れでしかない。性善説どころか性悪だ。国民を騙すことしか考えていない。

次にこの時期になって、突然、天皇陛下がコロナのワクチンを接種したことを宮内庁が公表した。これまでは個人情報に関わることだからと公表することを拒否していたものである。さてこの報道から何が読み取れるであろうか。先ず、今まで非公表であったものを突如として公表に転ずるということは、宮内庁単独の判断としては考えられないことである。当然、政治の要請があったであろうということだ。しかしそれは国民のワクチン接種率を高めるために天皇を利用するということであり、天皇の政治利用ではないのかということだ。政治がなぜそこまでして国民にワクチンを接種させようとするのか。週刊新潮の記事ではないが、日本人の死亡率や重症化率は低いのである。感染者数の増加ばかりを殊更に強調して、ワクチンの接種率を上げるために手段を選ばない政治の異常性が感じられないであろうか。それからこれを言うのは少し憚られるが、本当に天皇陛下はワクチンを接種しているのであろうかということだ。常識的に考えれば、500人以上の国民が接種直後に死んでいて、将来的な副作用の機序も不明であるものを、天皇に打たせるはずがないものである。単に国民を安心させて、ワクチンを接種する有難さを印象付けようと目論まれたものであると考えられる。政治はマスコミとの連携の中で国民にそういう嘘をつくことが多いということを全ての国民は肝に銘ずるべきである。因みに皇后の雅子さんは、天皇と足並みを揃えずにワクチン接種を頑なに非公表としているということであるが、これも普通に考えれば異例のことであって、私は雅子さんは接種してもいないワクチンを接種したと国民に嘘の公表がなされることを拒絶するがゆえに非公表になっているのではないかと推察している。繰り返すが私の推察が正しいかどうかは最終的にはわからないものである。推察が正しいか、間違っているかではなくて、私はそのように考える思考のプロセスを提示しているのであって、政治やマスコミの嘘に流されないためには上滑りに情報を受け入れるのではなくてそういう思考のプロセスが不可欠であることを言いたい訳である。お分かりであろうか。

最後にもう一つ例を挙げれば、西村経済再生大臣が休業要請に応じない飲食店に対して金融機関からの働きかけを求める方針を示して問題になったが、あれはうっかりと口を滑らせて言ってしまったから問題になったのであって、政治はそれに似たようなことを普段から当たり前のように行っているのである。仮にそういう発言をしないで、裏で金融機関に働きかけをさせていれば問題になりようがなかったであろうということだ。それはコロナワクチン接種後の死亡事案についても言えることで、医師が死亡とワクチン接種の関連性があると見做すかどうかのハードルの高低は、おそらくは医師会を通じた政治的な要請に左右されている部分が大きいのではないかということである。よって現時点で厚労省が発表している死者数が五百数十人であったとしても、実際にはその数字に反映されずに漏れているケースもかなりあるのではないかということだ。一方でコロナの死者数は、それが自然死であれ突然死であっても、または軽症者や無症状者であっても、陽性者であればすべてが漏れなく新型コロナによる死者としてカウントされているのとはあまりにも対照的である。要するに統計とかデータなどというものも政治の恣意的な解釈によっていくらでも利用できるということであって、国民がそういう操作に騙されない「賢さ」を示していかない限りは、政治やマスコミは同じような手口を飽きることもなく、何十年でも延々と繰り返し続けていくであろうということだ。そして今まさに直面しているように自分たちの命を守ることすら難しくなってきているということを知るべきである。(吉川 玲)