龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

大谷の二刀流チャレンジについての賛否について

エンゼルス大谷翔平選手が大リーグ開幕直後から投打に驚異的な活躍を見せている。もちろん始まったばかりでこれからの長いシーズンを怪我なく乗り切ることができるかどうか、最終的に一年を通してどのような成績に落ち着くことになるのかは現時点ではわからないということは言える。しかし全世界の野球ファンにこれまでの常識を覆すような驚きと興奮と夢を与えてくれていることは確かであり、そのかけがえのないチャレンジスピリッツは野球という一スポーツ分野の評価に留まるものではなく、人間の可能性の地平を押し開くという意味合いにおいて決して大げさではなく、何十万年も地を這うだけの生物であった爬虫類の前足がある日突然翼に変化して空に羽ばたくような進化論的跳躍とでもいうか、突然変異的な一個体の才能が突如として世界を変革する祝福すべきエポックメーキングとして偉大な価値を有していると考えられるのではなかろうか。
まあ考え方、見方は人さまざまであろうが、いまだに大谷の二刀流を認めないで否定している野球解説者が日本には存在しているようである。本当はあまりこのようなことは述べたくないのだが、その理由があまりに下らないものなので一言、言わずにはおれない。その理由というものが簡単に言えば、二刀流では最終的に規定打席数にも規定投球数にも達することができないゆえに、超一流選手になることができずにもったいないというものである。一見するとこのような主張内容はもっともらしいものであるが、どうであろうか。反論するにそもそも規定打席数も規定投球数も二刀流で活躍する選手の存在を前提として設定されたものではないであろうから、その枠組みの中で超一流になれないとする理屈はフェアではないのではないのか。規定打席数も規定投球数も所詮は「制度」の問題であろう。いわば野球という土俵の中の政治的な観点から取り決められたルールである。そのルールはこれまでの野球における能力の限界や常識に根差したものである。今、そのようなこれまでの限界や常識を打ち破るような大谷の才能が出現している時に、既存の価値評価の物差しを持ち出してきて規定打席数にも規定投球数にも達しないから一流選手になれないなどという理屈は、要するに一個人の偉大な才能やチャレンジよりも政治的なルールや制度の方に価値があると言っているのと同じことではないのか。爬虫類の前足が翼に変化して空を飛ぶことはルール違反だと批判しているのである。そういう意見を見るに正直に言えば、辛辣であるかも知れないが、凡庸な人間が規格外れの才能の持ち主の足を引っ張る狡さなり、卑小さを感じ取ってしまって私は不快感を感じるものである。そういう理屈を聞いていると自民党の政治家が国民の目や判断を曇らせる口先だけの正論とそっくりのように思えてならない。真に何に意味があって、何に価値があるのかという基準の感覚が根底のところで転倒してしまっているのである。政治には常に人間を卑小で制御可能な程度に留めようとする力が働いている。そのような感覚や感性は少なくともスポーツの世界に持ち込むべきではない。