龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

TVという日本精神の迷路

遅ればせながら前回の話しの続きを書く予定であったが、折しも台風24号が日本列島に接近してきていて再び甚大な被害をもたらすことが懸念されている状況においては、内容的に決してふざけている訳ではなく真面目に書いているので不適切というものでもないとは思うが、それでも世間一般の認識レベルからあまりにも大きく乖離したようなことは現実的な災害の脅威を目前にして開陳することが憚られるような気がしてならないので一旦、中断してまた日を改めて続きを再開することにする。この台風24号についても思うところ、感じることはいろいろとあるが、取り敢えず今のところは日本の無事を祈ってじっとやり過ごす以外にないようだ。
それで今回は、話しがあまり深刻にならないように自らの精神の健全なバランスを保つ自己療法としても、どうでもいいような下らないことを書くことにする。昔から言われてきたことに(今の人はあまり言わないようだが)、TVを見ると馬鹿になるという警句があるが、それは本当だと思う。昔の人は生活の中で人間が生きていく上で大切な真理なり感覚を自然と身に付けていたのだなと今、改めて感じるものである。TBSにプレバトという番組がある。出演者のタレントがそれぞれの分野で才能を競うという企画であるが、その中に俳句のコーナーがある。前にも述べたことだがそこに東国原氏が出演していて番組的には名人という称号を獲得しているのだが、何か月か前にある作品に盗作疑惑が持ち上がって本人が盗作ではないが、結果的に迷惑を掛けて申し訳ないなどと言うよくわからない弁明をしていた経緯があった。私はその番組をたまにちらっと見る程度であったのだが、東国原氏の俳句については個人的な感想として、その疑惑が持ち上がる以前からその作品について違和感とでもいうのか本当に同氏が自分で作ったのであろうかとおぼろげにではあるが疑っていたものである。その理由は作り手の視点なり精神性のようなものが、どうも東国原氏のものとは一致しないように感じられてならなかったからである。それで宮崎新聞からの盗作疑惑が指摘された時には、個人的には盗作であることは間違いないであろうと確信を持ったものである。その作品(指名手配の顔に×)だけでなくそれまでの東国原さんのほとんどの作品について私は盗作の可能性が高いと考えたのである。まあそれだけのどうということはない、よくある話しであるが、私はその時に密かにスケベ心のような興味が出てきて、東国原氏はこれからどうするつもりなのであろうかと思ったのであった。というのはこれだけ盗作疑惑がその番組を見ている視聴者に知れ渡ってしまえば、幾らなんでももう盗作を続けることは難しいであろうし、大胆不敵にやろうとしてもTV局が許さないであろう。というよりもそれまでの同氏の作品はTV局のスタッフがどこからか探してきて、東国原氏の作品として提供していた可能性が高いのではないかとも私は考えていたので、どちらにせよ番組を降板しないのであればそれ以降は東国原氏が本当に自分の頭で考えて作らざるを得ない大変な事態になると、他人事ながら心配していたのであった。それでそれから暫くの間はプレバトを見る機会もなく、そのことについては忘れていたのであるが、昨日たまたまスポーツジムに行く前とジムで運動している時にTVでプレバトの俳句を見て思わず笑ってしまったのであった。人様の作品を批判したり、馬鹿にするようなことは言いたくはないが、番組内で紹介されていた東国原氏の作品は間違いなくご本人のものであると思えるものであった。明らかに以前に同番組で何度か見せられていたものとは、作風も作品の質も異なっていたものである。素人でも(私も素人だが)同一人物が作ったものでないことはわかるであろうというぐらいに歴然としている。因みに昨日、見た同氏の俳句は、ポストを題材として作ったもので以下の通りであった。
星月夜 赤ちゃんポスト 動きをり
繰り返すが馬鹿にするつもりはないし、私にはそういう意図もなければ能力もない。ただTBSの同番組に言う事があるとすれば、盗作をするなら疑惑の一つや二つが指摘されたくらいのことで方針を変更するような可哀そうなことをせずに盗作を貫徹させてやった方がいいのではないかということだ。この作品は結果的に同番組の夏井先生の評価では8人中の8位の最下位であった。別に私には順位などどうでもよいことであるが、可笑しかったのは夏井さんが、東国原さんに気を使っていたのかかなり無理があると思われる褒め方をしていたことだ。曰く上5と中7の星月夜と赤ちゃんポストの組み合わせは素晴らしいもので、その二つの語句を見た時にはこの作品は一位だと思ったということであった。果たしてどうであろうか。確かに星月夜と赤ちゃんポストの語句の組み合わせはそれなりの情感は醸し出されている。しかし単に二つの情景を並置させているだけの構成で特に面白いとも思えない。これを小説風に言い換えるとこういうことになるであろう。
光りが降り注ぐ星月夜の下で、思いつめた表情の若い女が赤ん坊を胸に抱えて、赤ちゃんポストの前で立っていた。
情感の感じられるドラマチックな光景であると言えるかも知れない。しかしそれがどうしたということである。単に情景を描写しているだけで、それで俳句として一位だ名人だというのは大袈裟である。そしてその光景の結句が、「動きをり」なのだからなんじゃそりゃということになる。夏井先生も言っていた通り何が動いているのかわからない。ポストが移転したのかも知れない。赤ちゃんが動いていると解釈しても母親がポストの中の籠に乗せようとした時にむずかって動いたのか、母親が立ち去ってしばらくしてから目を覚まして動いたのかも想像できない。よくわからないが、この俳句が盗作ではない東国原さんの作ったものであるということだけはよくわかる。過去の作品とは同一人物のものとは考えられない力量の差が際立っている。とは言っても番組全体を胡散臭いと言っている訳ではない。東国原氏だけが胡散臭いのだ。他の出演者は私が見るところ最初から全て自分で考えて作っているように見える。当たり前のことなのだけれど。別に芸人だからとか、タレントごときが優れた俳句を作れないなどとは考えていない。私が思うに俳句を作る才能とは、自分の世界観でぱっと一瞬にして情景なり情感の構図を掴み取って、それを言葉に置き換える能力である。学歴とか頭の良し悪しは関係ない。一口で言えばセンスである。また俳句に限らないが芸術的な表現行為は絵画であっても音楽や詩であっても全てが、自分を通して何かを表現するということの自分固有の必然性があるのかということが問われているのだと考えられる。そういう意味ではお笑いタレントや役者が持っている才能は、俳句の才能に通じるところが大きいように感じられる。たとえばプレバト出演者のフジモンなどは番組内での会話のやり取りを見ていても瞬時に核心を捉えて笑いに転換する能力の高さがうかがえるので自分なりの言葉の表現を一つの型の中で出来る人間のように見受けられる。千原ジュニアは自分を出発点とした表現の必然性がきわめて大きいように感じられるので、盗作などという行為からは精神的に対極に位置しているであろうことはよくわかるものである。梅沢富美男さんは役者なのでそれも女形を演じている役者なので情感がものすごく豊かで、その内面的な豊かさを一つの世界観の言葉に翻訳しているのである。私はたまにちらっとしかその番組を見ていないが、ちらっとでもその程度のことはわかるものである。しかし東国原氏だけはどうにも胡散臭い。そしてその胡散臭さは政治の臭いに通じている性質のものである。もっと言えば東国原氏の持っている胡散臭さは、TBSという放送局の体質と共通していてよくマッチングしているので決して番組の中で一人だけ浮いているものでもないものである。だから降板はさせられないし、それなりの配慮がなされているのであろう。そこにはTBSという放送局と政治の世界との奇妙で独自的な結びつきが影響しているように思われる。端的に言えばTBSはマスコミの中でももっとも胡散臭い局なのであって、番組においても他局に比べてもかなりヤラセやインチキが多いように見える。そして政治との癒着が見え隠れしている。たとえばモニタリングなどといういかにもヤラセの下らない番組に小泉純一郎氏の息子がレジュラー出演していることなどもその一つであろうし、伊藤詩織さんのレイプ事件で元TBSのワシントン支局長であった記者が安倍首相との親密な関係性から不起訴にされたことなどもその典型的な事例であろう。人によって見方、考え方は様々であろうが私はTBSはかなり政治(特に自民党)との歪んだ癒着体質にあると見ている。そういうことはバラエティー番組をたまにちらっと見てもよく見えるものである。反対に言えば見入ってしまうと見えてはこないものである。またこの程度のことが日常のTV情報などからぱっと読み取れないのであれば、昔の人が言った通りにTVを見れば馬鹿になるだけのことで見ないに越したことはないのであろう。この程度の認識能力が世間になければ国家的な陰謀であるとか並行宇宙の話しなどをしても誰もついてこれないのであろうし、狂人扱いされたり無視されるだけのことを考えると結局は何も書かない方がいいのではないのかといつも迷っている。