龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

社会の変化と滞留

一昔前は芸能界や興行の世界は当たり前のように暴力団やヤクザとつながっていたと懐古的に指摘する論調が見られるが、それは確かにその通りであろうが、さて今の時代にどう考えるべきなのであろうか。人それぞれに考えはあるであろうが、私は個人的には善悪の問題ではないと思う。昔は良くて今は悪い(生き難い)、或いはその反対などと単純に決めつけられるようなものではないであろう。時代が違うなどと言ってしまえばそれまでのことであるが、なぜかはよくわからないが、時代の経過と共に、10年、20年、30年と10年単位ぐらいで社会の全体的な在り様は変化していくのである。良くなったと言えば良くなったのであろうし、ヤクザのようにある特定の人々にとっては生き難くなったということである。それは反社の問題だけではなくて身近なところでは“煙草”も同じであろう。ユーチューブで昔の動画を見ているとたとえば三島由紀夫は、大学の教室(おそらくは東大)で学生相手に保守思想の講演を壇上で煙草をプカプカと吸いながら行っているのである。今では考えられない光景である。教室内に煙がもうもうと充満していて、そのような動画を見ていると日米安保や保守思想なんてどうでもよいから、窓を開けて換気しろよと言いたくなる。同様に石原裕次郎が何かの歌番組で煙草を吸いながらスタジオ内で歌っている動画も見た記憶がある。三島にしても石原にしても当時はそのような真似が粋であると思われていたのかどうかはわからないが、今の時代に見るとかなりの違和感や抵抗感がある。煙草は元々、専売公社によって国家的に管理されてきたもので、大麻などとは違って合法であることは今も変わらないが、ある時期から急に悪者扱いされてしまって、市民権は大きく低下し、喫煙者は家庭内でも屋外でも居場所がなくなっている。ヤクザなどの反社と同じである。その変遷が果たして本当に正しいのかそれとも間違っているのかという観点からの議論も当然、あってしかるべきだとは思われるが、ただ確定的なことは時計の針を逆向きに回すように昔の世相に戻ることは現実的には有り得ないであろうということである。公的な場所やTVの収録などで出演者が煙草を吸いながら、講演をしたり、歌うことが許されるようなある種の大らかさや自由が復活することは、たとえどのような議論や意見があるにせよないであろうし、同様に暴力団員が代紋の威勢を誇示させながら肩で風を切るように繁華街を練り歩くような時代に逆戻りすることも有り得ないであろう。そのような例はいくらでもある。たとえば性犯罪一つを取って見ても、30年くらい以前であれば日本の電車は痴漢の常習者にとってみれば、痴漢天国とでも言うか「やり放題」であったのかも知れない。通勤ラッシュアワーの時間帯に1つの車両に異常に乗客を詰め込んで他の乗客と身体が密着しているのが当たり前の状態なのだから、手が女性の身体を触ったとしても不可抗力として何とでも言い訳が利いたのだと想像される。私には経験がないのでよくは知らないが。女性も明らかに痴漢されているという確信があっても、そのような時代には声を上げて抗議することが実質的には許されていなかったと言えよう。しかし今の時代は正反対である。仮に100に1つの冤罪であったとしても女性に痴漢を訴えられてしまえば男にとっては万事休すである。どうしようもないので、基本的には男が痴漢に間違えられないように自己防御する必要性が生じているということだ。レイプ犯罪も同じである。30年前なら恐らくは女性が勇気を振り絞って、レイプの被害を警察に告発したとしても、被害者である女性側がその性行為が合意でなかったことを証明できなければ、容疑者の男性は捜査されなかったり、不起訴になるケースが多かったのではなかろうか。今の時代はそうではない。女性がレイプの被害を警察に届け出て、相手側の男性が一旦、逮捕され取り調べを受けることとなれば徹底的に追及されて自白をせざるを得ない心理状態に追い込まれることであろう。仮に無罪であったとしても、無罪を証明することはよほどの幸運に恵まれなければ至難の業である。その男性が時の総理大臣と仲のよいジャーナリストなどであれば話しは別であろうが。普通は裁判所が一旦、発布を認めた逮捕状が、直前になって執行が取り止めになるようなことなど有り得ないことだ。
ともかくも何が言いたいのかと言えば、反社の処遇やたばこのような嗜好品だけではなくて、犯罪全般の取り締まりやプライバシーの取り扱いなどもそうであろうし、女性の地位向上や差別撤廃も含めて、世の中は美空ひばりの歌ではないが、川の流れのように不可逆的に変化していくということだ。それが正しいか間違っているかと言えば、その「行き過ぎ」が社会に弊害をもたらしているのではないかという視座の考えはあるし、それはそれで非常に大切なことであるといえようが、それでも川の流れを逆行させたり、止めることは不可能である。そういう大前提で私が強調したいことは、そういう変化の相を基点にして見た時に、マスコミや芸能界においてだけは何かしら異世界のように澱んでいるように見えるということだ。どうしてマスコミや芸能界だけが、いつまでも特別扱いされなければならないのか、特別扱いする必要性があるのかということだ。それはマスコミや芸能界の世界が、反社の世界とではなくて「表の政治権力」と深く密着しているからではないのか。今回の参議院選挙でもいつものように泡沫的な芸能人が立候補させられているが、マスコミの情報操作と芸能界の知名度を日本の政治は活用することしか考えていないから、そういうことにもなるし、また今回のように芸能界と反社の交流の事実が表沙汰になっても、くだらないタレント政治の側からそのような構図を温存させようとする擁護の意見が出てくるのである。そして政界もそのためにこそ幼稚なタレント政治を必要とするループ構造が固定化されていると見做されるものである。頭の悪い連中相手に力説していると疲れるわ。