龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

百円の恋と百円以下のお笑いタレント

百円の恋か。何年前だったか、大阪梅田の映画館で確か園子温監督の『冷たい熱帯魚』を見に行っていた時だと思うが、映画『百円の恋』のポスターかチラシを見て気にはなっていたのである。私ぐらいになると(もちろん冗談だが)、ポスターなどを一瞥するだけで直感的にいい映画、見るべき映画というものはわかるとまでは断言できなくとも、何か伝わってくるものはあるのだ。それで結局、映画館では見れずに、ヤフーのレンタル(ポスレン)でDVDを借りて見ようと思ってマイリストに登録はしていたのだが、ずっと貸し出し中の状態になっていて一向に借りれないのであった。それも数週間とか数ヶ月というレベルではない。私の知る範囲内においては貸し出し中の状態が、1~2年、或いはそれ以上続いていたのではなかろうか。凄い人気だなと漠然と思っていた。見てはいなかったので何とも言えなかったが、カルト的に人気のある作品なのかも知れないと考えてもいた。それが数日前のことであるが、久しぶりにポスレンの画面を見ていると『百円の恋』が貸し出し可能の状態になっていたので、他の作品と一緒にレンタルの注文を入れ、届いたのを早速、鑑賞したのである。
感想を一言で言えば、いい映画であった。主演女優の安藤サクラの演技が素晴らしかった。数年間も貸し出し状態になっているのが納得できた。内容を簡単に紹介する。安藤サクラが演じる女性(一子)は32歳にもなるのにひきこもりのニートで、日々だらしのない生活をしていた。離婚して子供を連れて実家に戻ってきた妹と派手な喧嘩をしたりでついに両親も手に負えなくなり、家を出て安アパートを借り一人暮らしを始めなければならなくなったのである。それまでは実家の弁当屋の手伝いをたまにする程度だったのだが、百円均一のコンビニで働き始めることになる。百円の恋というタイトルが疑問であったのだが、百均の店で一子が働いていて、その一子の恋が描かれている映画で百円の恋とは味わいのあるネーミングである。一子は近くのボクシングジムのプロボクサーの男と出会い、一緒に住み始めることとなる。その男を演じているのが、先日、マッサージ嬢の強姦容疑で逮捕された新井浩文である。なるほど、そういうことかと、合点がいった。何年間も貸し出し中であった超人気作品が急に借りられるようになったのは、貸し出しの規制されている訳ではないのに事件の影響で多くの人が見ることを敬遠するようになったからである。世間というものは非常に分かりやすいというか、純朴な反応を示すものだなと映画の面白さ、素晴らしさとは別に興味深く感じたものである。私なら反対に(私が捻くれているだけなのかも知れないが)、何かの犯罪で捕まるような役者がどういう演技をするものか興味が大きくなるのであるが。しかし率直に言って、新井浩文の演技には気持ち悪さが感じられた。気持ち悪いなどと言えば、単なる悪口にしか聞こえないかも知れないが、何を考えているのかわからない不気味さが漂っているのである。その存在感なり雰囲気を演技力で意識的に作りだしているのであれば、優れた俳優であると認めざるを得ないが、今回のような事件があれば「地」のようにも見えてくるのである。いや、恐らくは地であろう。結果論と言われればそれまでであるが。ともかくも世間の反応とすれば、地に見えてしまうので途端に見ることを拒絶してしまっているのであろうと推察される。そのように考えれば新井浩文の復帰は、困難であるという以上に不可能であるようにも思える。それに比べれば覚せい剤で捕まったピエール瀧は何だかとてもクリーンだ。汚れの落ちた便器のように。
安藤サクラの演技は突出している。一子はボクシングジムから覗き見る光景と男に触発されるようにボクシングを始めることとなり、顔付きや体型が映画の進行と共に変化していく。ボクシングの試合の場面での安藤サクラの演技は凄すぎて笑ってしまった。ボクシングで戦うことの苦しさや壮絶さをこれほどリアルに演じられる俳優は、男であっても他にいるであろうか。あのような白目を剥いて倒れている顔は演技で作れるものであろうか。そして見終った後にはなぜか幸福感に包まれるのだ。曲名は知らないが、痛い、痛いを連呼するエンディングの曲がまた良い。生きることはボクシングで殴られるように、痛い、痛い、痛いのだ。安藤サクラは、盗撮魔と新興宗教の妙な映画である『愛のむきだし』の時から只者ではない雰囲気があった。そして最近見た『万引き家族』では、演技にただならぬ成熟と深みが増してきたようにも感じられた。万引き家族の映画で意外であったのは、松岡茉優という女優がとても心に残る良い演技をしていたことだ。美人なだけの十把一絡げ的な女性タレントの一人としか見ていなかったので、そうでないことが驚きであった。
ともかくも私は芸能界やタレントを一括りにして馬鹿にするつもりはない。いいものは素直にいいと思うし、本当に才能のある人間には敬意を表するものでもある。しかし今のお笑いタレントについて言えば、何も無理をしてお笑いタレントの地位を引き上げる必要性はないのではないのか。別にお笑いを差別したり蔑視するつもりはない。日本にチャップリンやバスターキートンのような世界的な喜劇役者が現れて欲しいとは思うが、今の日本にはどうでもいいような下らないお笑いタレントが多過ぎるのだと思う。需要と供給のバランスが取れていない過剰供給の状態なので、これでは反社と結びつくのは社会学的な必然なのではなかろうか。それからお笑いタレントが文化人のように政治的な発言を繰り返すこともどうかとは思う。もちろんお笑いタレントにも表現の自由はあるので思う所を率直に述べることは間違いではないであろうが、知名度や露出性の高さゆえに批判やバッシングを浴びることもあるであろうが、反対にまるで模範解答のように一人歩きすることもあるであろう。果たして多くの国民はお笑いタレントに文化人としての発言を期待しているのであろうかと疑問に思うことが多い。そのような芸能界の風土に染まったタレント政治家の阿りや屁理屈などは論外である。