私にとってのいい映画の条件は結構単純で、監督や役者含めて全ての作り手側人間たちが本当にいい映画
を作ろうという熱意が見ていてどれだけ伝わってくるかということである。映画の素晴らしさとはそうい
うことではないのか。情熱があるか、ないかが全てなのだ。最近、見た映画では『明日の記憶』はなかな
か良かった。はっきり言ってハリウッド映画は駄目だ。金儲けの匂いが強すぎて辟易させられる。もちろ
ん私の偏見もあるかも知れないがアメリカ映画を見ていると今流行の“格差社会”という言葉が頭にちら
ついて何となくうんざりさせられる。それに比べて日本映画は結構、頑張っているのではないか。今回、
見た『嫌われ松子の一生』も映画を通して表現することの喜びや熱意が伝わってきた。私は原作をまだ読
んでいないが、おそらく監督は原作を忠実に再現することではなく映画でしか表現できない可能性に挑戦
しようとしたのではないか。そんなことを感じさせられた映画だった。『嫌われ松子の一生』は不幸な女
の物語である。中谷美紀演ずる松子は中学教師を勤めるも、生徒の窃盗事件がきっかけで首になる。その
後太宰治に傾倒する作家志望の男と同棲し暴力を受ける。男は踏み切り自殺をする。それからその作家志
望の男の友人と不倫することになるが、男の妻にばれて捨てられる。ソープ嬢になり同棲中のヒモ男を殺
してしまう。自殺した作家志望の男の後を追って太宰治が心中した玉川上水で入水自殺しようとするとこ
ろを理髪店の男に拾われ同棲することになる。しかし結局警察に逮捕される。出所後、教師時代に首にな
る原因となった元生徒と再会する。ヤクザになっていた元生徒と同棲を始める。暴力に遇い友人に別れを
勧められるが、松子は「私は地獄まで(その男に)ついていく。それが私の幸せだ」と言い切る。その男
がある事件で逮捕され服役した後は一人暮らしを始める。53歳の時に何者かに殺害され荒川河川敷で死
体で発見される。と、まあこんな具合である。まさに不幸のオンパレードだ。しかしこの映画は、そんな
松子の一生を悲劇としてではなくミュージカルを交えたコメディーとして、メルヘンチックにそしてロマ
ンチックに描いていく。観客が求めている夢がいっぱい詰まった宝石箱のような、そんな映画だった。
それで一体、不幸とは何なのだろうか。松子の一生は本当に不幸だったのか。たとえば世界の極貧困国や
地域には栄養失調で弱っていく我が子をなすすべもなく深い悲嘆の中で抱きかかえることしか出来ない母
親たちが何十億人といる。我々には決して無視してはいけない現実がある。しかし、そのような人たちを
ひと括りににして不幸と言うことは、どこか不遜な態度のようにも思える。悲惨であるということは必ず
しも不幸であることを意味するものではないのだ。悲惨とは他者の評価であり、幸福であるか不幸である
かは自己評価である。そして自己評価は自分が本当の自分をどれだけわかっているのか、愛しているのか
という魂の問題でもある。松子の一生は悲惨であると同時に幸福であったのかも知れない。松子が晩年住
んでいた不潔極まりないボロアパートがとても美しかった。色とりどりに塗りたくられた壁と窓から差し
込む光がゴミと埃にまみれた部屋に明と暗のコンストラストを作り出す。この映像に中島哲也監督のメッ
セージが込められているようにも感じた。人間の生のあるところ不幸もまた光り輝くのだと。