龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

伏見稲荷大社

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8月15日に京都、伏見稲荷大社に行ってきた。終戦記念日に行ったことについてはもちろん何の意味も

ない。私は今まで大阪で生まれ育っていながら歴史の街、京都についてほとんど何も知らないできた。京

都の神社や寺、風物などを見ながらただひたすら巡り歩こう。そして写真を撮り、思いついた事をブログ

に書こう。盆休みの間にふとそのようなことを思いついたのである。なぜ伏見稲荷大社なのかということ

についても特段の考えがあったわけではない。私の伏見稲荷に対する知識は商売の神様が祀られていると

いうことと毎年、初詣の参拝客が全国で指折りに多いということぐらいでそれまで一度も行ったことがな

かった。


実際に行ってみると全国で2万とも3万ともいわれる稲荷の頂点に立つ神社だけあって、本殿の姿は威風

堂々とした端正な佇まいが夏の澄みやかな青空を背景に燃え上がるような朱に映えていて立派だった。賽

銭を投じ適当に拝んだ後、千本鳥居をくぐり抜け稲荷山を登った。そこかしこに狐の石像が見られた。稲

荷と言えば狐である。しかしどうして狐なのだろうか。日本は八百万の神の国である。仏教だけでも如来

や菩薩、明王や天部の神々が無数に存在する。そして神々は様々な動物に化身したり使わしめたりする。

狐以外には牛、鹿、蛇、鰐等の動物が時として神格化される。動物を神としてあるいは神の使いとして崇

めるというのは西欧人特にクリスチャンには理解できないことのようである。もちろん日本人だって理解

しているわけではない。しかし生活の中で特に違和感がない。日本人の精神は原理主義的ではないのだ。

良く言えば柔軟であり、悪く言えばいいかげんということになるのだろうか。私は7年前にホテルの中に

あるチャペルで身内だけでひっそりと結婚式をあげたのだが、どこかの教会から派遣されてきた日本人牧

師と式の打ち合わせをした後、神についてのちょっとした訓話を聞かされている時にその牧師が狐や蛇が

神になるなどとは考えられないことだと吐き捨てるように言ったことを覚えている。唯一無二の神とその

子キリストの教えを中心とするキリスト教的世界観から見ればそのようになるのだろうか。そのようなこ

とを考えながら無限に続くのではないかと思われるような朱の鳥居のトンネルを歩いてゆく。鳥居で囲ま

れた空間は保護されているような不思議な安心感がある。胎内回帰に通ずるものがあるのだろうか。途

中、池があり白鷺が一羽休んでいた。写真を撮ってしばらく見ていたが一向に動く気配がない。作り物だ

と思って一旦デジカメから画像データを削除してもう一度見ると姿勢を変えているのでびっくりした。あ

わててもう一度撮りなおした。夏の日差しを避けるように藪の木陰でじっとしている白鷺は神聖な白き炎

のようだった。


後日、調べてみると稲荷の主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という名前の神様であるが、鎮

座の伝承について『山城国風土記(やましろのくにふどき)』は次の通り語っている。「和銅四年(71

1)2月初午の日、秦伊呂具(はたのいろぐ)という豪族が餅を的にして矢を射た。すると餅は白い鳥と

化して飛び去り山の峰に下り立った。そしてそこに稲が生じた。それが稲荷の名の由来である。」宇迦之

御魂神(うかのみたまのかみ)は食物と豊穣の神であり、稲荷(イナリ)という名前自体が稲成(イネナ

リ)で稲作と深い関係があるようだ。元々稲荷は農業神であったものが時代とともに守護する範囲を拡大

し、物流制度が発達した江戸時代には商売繁盛の神様になったとのことである。上代において白は神霊の

象徴であった。よって古来の人々は白狐や白蛇、白鳥などに畏れの感情を抱き続けてきたのだろう。しか

し一般的に言って狐という動物は日本人にとっていいイメージで受け止められてきたとは言い難い。山で

人を道に迷わしたり、美しい女に化けて誑かすような生き物だ。また人間にとり憑き災いをなしたりもす

る。実際に病気や不幸の原因が狐の憑依にあると判断して、その状態から回復するために稲荷をまつるよ

うに指導する例もあるようだ。狐という文字が使われる言葉を見ても「牝狐(めぎつね)」「狐につまま

れる」「狐火」など否定的なものやおどろおどろしいものが多い。これだけ全国で稲荷が祀られているの

だから神の使いである狐はもっと愛されてもよさそうなものである。デパートの屋上で祀られていたりも

するのに。しかし要するに稲荷神は単なる商売繁盛の福神であるだけでなく託宣(お告げ)したり憑き物

を落とす神でもあり、様々な性格が付与されているがゆえに一般人には近寄りがたく簡単に愛する対象で

はないのだろう。空海によって稲荷と習合された密教の茶枳尼(ダキニ)天は元々生きた人間の肝や肉を

食べるヒンズー教の鬼神であった。茶枳尼(ダキニ)天も白狐に跨る天女として表される。茶枳尼は強力

な呪力を持つとされ各時代の権力者に崇拝された。後醍醐天皇は茶枳尼の力を借りて鎌倉幕府打倒を画策

した。日本の古代、中世の政治は呪術に影響されていた一側面が確かにあったのだろう。茶枳尼のように

絶大な力を持ちながら危険で近寄りがたい神は西欧では存在しないのではないのか。キリスト教圏の神と

悪魔の概念は、人間世界で安易に善と悪に分類されているようで個人的には面白みに欠けているように思

える。悪魔の映画を見てもちっともこわくない。悪魔など存在するわけがないからだ。それに比べて日本

八百万の神々は面白い。稲荷山のハイキングは僅か4キロほどの行程であったが暑さにもやられてばて

てしまった。日頃の運動不足だ。私はもっと歩かなければならない。