龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

東寺にて想う1

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8月15日に伏見稲荷神社に行ってきて、しばらくしてから今度は東寺(教王護国寺)へと足を運んだ。

伏見稲荷と東寺は神社と寺の違いはあるが空海以来、関係が深い。空海嵯峨天皇から真言宗の布教拠点

として東寺を与えられたが、弘仁14年(823年)東寺、五重塔建設の際に建造用の木材を伏見稲荷

社の神域から切り出してしまった。その祟りが淳和(じゅんな)天皇を襲ったという。空海は工事を中断

し稲荷神の分霊を東寺の守護神として招き、東寺の境内にも社を建てて祭祀した。これが寺の鎮守として

稲荷神を勧請した最初の範となり、元々農業神であった稲荷神は真言密教と強く結びつき仏教的な現世利

益の考え方を取り入れて庶民へ浸透してゆくこととなる。またヒンズー教の鬼神である白狐にまたがるダ

キニ天の姿が稲荷神と同一視されるようにもなった。今でも東寺の年中行事の一つとして5月3日、伏見

稲荷の神様を接待供養する『稲荷還幸祭』という儀式が行われている。


神木を切って祟られるなどということが本当にあるのだろうか。しかし私が知るだけでも、大阪市内の道

の真ん中で明らかに交通の不便を為している場所に古木が切られずに祀られている場所が何箇所かある。

蛇が祀られているようである。なぜ蛇なのかわからないが21世紀の今日においても祟りを恐れる風習が

残っているのであるから1200年前の人々が、そのような解釈をしたとしても無理はない。人間の精神

性は1千年の時を経てテクノロジーの進化の恩恵を被ったところでほとんど変わらないと言えるのではな

いだろうか。恐らく今から1000年後の人々も狐に取り憑かれたり、怨霊に呪われたりして悪夢にうな

されていることであろう。しかし東寺の件に関して言えば祟りが空海を避けるようにして天皇に行ってし

まうところが空海らしくもあり、なぜか微笑ましく感じられる。それはそうとして東寺に出かけた日の

朝、ちょっとした出来事があった。駅前の喫茶店でモーニングを食べてから行ったのであるが、その喫茶

店で会計を済ませお釣りを500円硬貨でもらった。その500円硬貨が昭和62年発行のものだったの

である。と言っても一般には何のことかわからないであろうが昭和62年度の500円硬貨は発行枚数が

少なくてちょっとした希少価値のある硬貨なのだ。私は500円玉を貯金缶(100円ショップで売って

いる30万円貯めるもの)で数年間集めていたのでよくわかるが昭和62年度の500円硬貨は入手不可

能と言ってもいいぐらいである。500円玉で600枚貯めることの出来る貯金缶を3つ、累計でいえば

5つまで集めたが昭和62年度の500円硬貨は3年ほど前に別の喫茶店でお釣りでもらった1枚だけで

あった。市場には流通していないとも言われているのでその時の1枚ですら奇跡的であった。しかし3年

ほど前の500円硬貨は新硬貨に押されてだいぶ少なくなってきていたとは言え、旧硬貨はまだたくさん

流通していたのである。しかし今日においては500円の旧硬貨を目にかけること自体がほとんどなくな

ってきているので、手にした500円硬貨の発行年度を気にすることも忘れていた。そのような状況で入

手した今回の1枚はまさに奇貨というべきものである。こういうのも奇瑞というのであろうか。神聖な地

により一層、励んで詣でよと私は諭されているのであろうか。神仏の働きは本当に意外な方法でしかもそ

の人間にしかわからない姿で顕現する。しかし、奇瑞か吉兆か知らないが昭和62年度の500円硬貨自

体は希少性はあっても市場価値はほとんどない。コインショップに行けば1500円位で売られているよ

うであるし、よって引取り価格となれば原価の500円とほとんど変わらないのだ。まあ、当たり前のこ

とではあるが。元々信仰心の薄い私は、どうせならロト6で1等を当てて下されなどとすぐに罰当たりな

ことを考えてしまう。それで当日、実際に京都駅構内で5口買ってみたが案の定かすりもしなかっ

た。……とほほほほ、だ。大体が博打や色事の願いは神仏には通じないものである。何故だと聞かれても

私にはわからないが昔からそのように相場が決まっているのだ。しかし過去にこのようなことがあった。

もう10年ほど昔のことである。ある日私は新聞広告を見ていて白檀製の大日如来像が欲しくてたまらな

くなった。別に私は仏像コレクターでも仏教に関心があったわけでもない。何故欲しく思ったのか、今市

自分でもよくわからなかったのだが思い当たることと言えば、東京にいた当時私は目黒不動瀧泉寺)の

近くのボロアパートに住んでいた。仕事が休みの日曜日などは何をすることもなく歩いて4~5分の目黒

不動に行って時間をつぶしていた。本堂の裏には高さ4メートル程の大日如来坐像が鎮座している。私は

その大日如来像をよく鑑賞していたのである。その時の記憶が無意識に購買意欲へと転じたのかも知れな

い。それで結局13万円ほどもした白檀の大日如来像を通信販売で買ってしまった。今となれば何であん

なつまらないものを買ってしまったのかと後悔しているし、正直なところ処分にも困っている。それでそ

の13万円の大日如来像を買って1週間ほどしたある日、私は競馬の馬券を買った。馬券を買ったのは初

めてではなかったが、ほとんど私は競馬には馴染みがなかった。春のG1で5000円、馬連1点買いし

たものが見事に的中し確か2700円位の配当でちょうど大日如来像を買った金額と同額の利益を一瞬に

して手にしたのである。駿馬ナリタブライアンのおかげでもあったが仏像を買ったお金が不思議な力でそ

っくり返ってきたようにも感じられた。調子に乗ってその翌週のG1にも馬券を買った私は1レースだけ

で4万円ほど儲けてしまった。しかし運はそこまででその翌週以後はまるで憑物が離れたようにまったく

勝てなくなってしまった。また未来永劫勝てそうもない気がしたので競馬そのものを止めてしまった。抹

香臭い話しはしたくないし偶然は偶然として割り切った考えをしたほうが清らかな気もするのだが、やは

り日常生活の中で人智を超えた力に導かれ、教えられ、生かされているような気配を私は否定することは

出来ない。否定することは出来ないが私は天邪鬼な性分でその世界に没入することを良しとはしないので

ある。私の精神は絶えず外部に出でようとし、内部を疑ってしまう。当たり前を疑い、世界を疑い、神仏

をも疑う不遜なポーズを取ってしまう。私の孤独の原因はそういうところにあるのかも知れない。しかし

結局、私はいつも内側にいて保護されていることを思い知らされるのである。私という人間は感謝の気持

ちが少ないのかも知れないし、愛に欠けているのかも知れない。