龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

空海と特別公開の夜叉神立像について

朝日新聞の紹介記事を見て思い立ったように、京都の東寺まで特別公開の秘仏を見に行った。檜材による一木造りの、一対の夜叉神立像である。弘法大師空海の御作であるとされている。東寺、南西隅の潅頂院に安置されていた。印象は、先ず、いけばなの各流派の家元らによる花が像を取り囲むように供えられているのだが、生け花と怪しげな雰囲気の立像がいかにもミスマッチであり、敢えて意図的にミスマッチの演出効果を狙っているのかと思った。もう一つは、思っていたよりも大きいのである。東の阿形の雄夜叉も、西の吽形の雌夜叉も2メートルほどの高さがあった。2体の夜叉像をじっと見ている内に、私の心にはある疑問が湧き上がってきた。
本当に空海が彫上げた像なのであろうか。違うやろ。
秘仏にケチをつけるつもりはないが、どうも私には空海が仏像を彫っているイメージがない。小さな像ならともかくも、こんなにも大きな像をそれも一木造りとなると、空海ではないと思う。恐らくは、空海が身の回りの誰かに命じて作らせたのであろう。それなら有り得るような気がする。この夜叉像だけではないが、仏像というものは信仰の対象として、有難さや貴重性を醸し出させるために空海のような高名な人間が作ったものとして、それにまつわる奇跡的な伝承とともに語り継がれていくものである。私の悪い癖で、一旦疑問に思うと場違いな質問であるにも関わらず、口に出して聞いてみたくなるのである。と、思って回りを見渡すと、堂内には夜叉像についての簡単な説明を見学者に対してしてくれた若い女性が所在無げに居残っているのが目に付いたので、その女性に聞いてみることにした。とは言っても、いくら何でもぶしつけに「これらは本当に空海が作ったのですか。」などとは聞けないから、遠回しに探るように
「この夜叉像は、空海さんのいつごろの作なんですか。」と聞いてみた。するとその女性は「平安時代です。」と言う。そんな事はわかってるわ、と思いながらも気を取り直して、「いや、だから唐に行く前とか、帰ってきてからとか。」と聞くと、毅然とした様子で「そこまでは伺っておりません。」と答えるのであった。「・・・。」である。聞いた私が間違っていたようだ。800円の拝観料では、この程度のものなのだろうか。
その秘仏を実際に空海が自らの手で作ったものかどうかはともかくとしても、私は空海は、とにかく桁違いの凄い人物であったことだけは間違いないことであり、個人的には畏敬の念を抱いているものである。天才というような言葉だけでは言い表せないような、ありきたりの天才という称号を陳腐化させてしまうほどの歴史的に傑出した、実際に歴史と日本の精神を作り上げた超天才であったのであろう。今から1200年前のこととは言え、日本にこのような偉大な人物を輩出していることは、全ての日本人にとっての誇りであると言えよう。何が凄いと言って、いや実は私もあまり詳しくはわからないのだが、こういうことを想像するのである。たとえば、現代で言えばローマ法王とかダライラマの前に私が立っている場面が仮にあるとして考えるに、確かにそれなりに恐縮するであろうし、緊張するかも知らないが会話を交わせないことはないと思うのである。或いは調子に乗って「まあ世界平和のために頑張ってや。」ぐらいのことは言ってしまうかも知れない。しかし空海が相手だと、もし時空を超越してそういうことが可能であるとすればの話であるが、とても無理だと思うのである。恐らくはその圧倒的な存在感に気圧されてしまって、言葉どころか喉から音声を発することすら出来ないような気がする。なぜなら私が考えるに空海という人物は人であって人でないのである。神人である。別の言い方をすれば生き神だ。生き神はとてつもなく恐ろしい。会話をするどころか、空海の目前に立ち目を合わせることすら憚られるのではなかろうか。私の想像に過ぎないが、空海という人物には巨大な偉大性とともに、そのような生き神的な恐ろしさがあったのだと思われる。これが最澄だとまた全然、違ってくるのだ。最澄も歴史上の偉大な人物であることには変わりないが、またこういう余計なことを言うと怒られるかも知れないが、もし私が平安時代にタイムスリップして、どこかの道で最澄と擦れ違うことがあれば、擦れ違いざまにぽんぽんと肩を叩いて「お疲れさん。」とか声を掛けてしまうかも知れない。最澄にはそのような親しみ安さがあったのではなかろうか。しかしまかり間違って空海にそのようなことをすれば、その夜に原因不明の高熱を発して、死にかけることとなるような気がする。秘仏の夜叉神立像を見た帰りのJRの車内で、一人で私はそのようなどうでもよいことをあれこれと考えていたのであった。