龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

盗作疑惑への政治家的弁明

確率とか統計などという概念は、庶民の生活感覚のなかでは漠然としたイメージに過ぎないものであって突き詰めて考える対象ではないから「嘘」も通用するのであろう。たとえばオセロのゲームでは8×8=64の桝目があって最初に白と黒の石が二つずつ置かれているので一人がゲームで打つ回数はパスが無ければ(64-4)÷2=30手である。それも一手ごとの打てる場所は限られているから、全ての打ち手の総数も大した数ではないであろうと初心者は考えがちであるが実際にはそうではない。現在の最先端のAIでもまだ全ての差し手を完全に解析できてはいないと言われているほどである。よって今や世界中でプレイされているオセロ対局の初手から最終手までの手順は、オセロというゲームが日本で生み出されてから今日までの総数で見ればそれこそ天文学的な数になるであろうから全く同一なものも「偶然に」たくさん発生しているように感じられるであろうが、実際はそんなことはなくて仮に一日に世界中で数千万人の人間が100年や千年程度の間、打ち続けても完全に一致した差し手が起ることは現実的には有り得ないものである。これが将棋や囲碁になってくるともっと確率が小さくなってくる。何が言いたいかと言えば、この偶然の一致というもののあり得なさは実は俳句でも同じなのである。俳句はご存じの通り、五・七・五の17音のみで作られる言葉の組み合わせなのでたまたま全ての語句が一致していても、一般的には偶然と言うこともあるだろうと思われがちであるが、確率的にはおそらくはオセロ対局の60手が全て一致するよりもはるかに小さいのではないかと考えられる。言葉の選択、順序というものの総数は17音という制限があるにしてもほとんど無限の世界である。60の桝目を白と黒の石で埋めていくのとは比べものにならないほどの選択肢の数があって、同一の句が偶然に生み出されるものではないことぐらいのことは俳句を長年嗜んでいる人にはわかるのではなかろうか。
東国原という人物は、この100年ぐらいで作られている俳句は天文学的な数で、その全てについて類似したものがないかどうかを調べることには限界があるなどと尤もらしい言い訳をしながら、殊勝にも自分の至らなさによるものだと謝罪しているがいかにも大衆を馬鹿にしたような政治家的な弁明である。プレバトとかいう番組は私はごくたまにしか見ないが、今回、問題になっている句ではないが、東国原氏の俳句について本当に自分で考えて作っているのかなと疑いを持ったことがある。その俳句は覚えていないが、お盆をテーマにしたもので鶏の首を鎌で切ってどうとかというような内容であったと思う。なぜそう感じたのかと言えば、俳句と言うものはその人間の精神性というものが否応なく現れてくるものである。筆跡みたいなものであって、ごまかせないものなのだ。しかし私には東国原という人物像とその俳句の中身が一致するように感じられなかったし、どことなく違和感の気配が強くあったからだ。一旦そのように思えてしまうと全てが胡散臭く見えてしまって、その後ほとんどその番組は見ないようにしていたが、やはりそうであったのかという思いである。まあバラエティー番組なのだからその程度のものである。根っこはチャラチャラしているだけの何も考えていない人間が寄り集まって自己宣伝しているだけの場だから今回のような盗作疑惑も出てくるのである。あまり真面目に批評しているとこちらが馬鹿に見えてくるのでこの辺で止めにしておこう。私はこんなくだらないことではなくて他に言わなければならない重大なことがあるのだけど、しかしなあ・・・。