龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

オウム囚人への死刑執行について

今、このタイミングでのオウム真理教、麻原たちへの死刑執行がどうなのかと言えば、怪しいとしか言えない。確かに死刑執行の設備がある拘置所に移送されてきていたので、いつ執行されてもおかしくはない状況ではあったが、移送されてから暫くは放置されていたし、移送の時点で執行日が決められていたかと言えばそうは思えないものである。ここにきてドタバタという様子で執行したのは、私がオウムと阪神淡路大震災の関係を追求し始めたことと果たして無関係なのであろうか。私にはそうは見えないのだが。だから私には証拠抹殺のための死刑執行であったような気がしてならない。死人に口なしということだ。そもそも日本の死刑執行のタイミングは日本の権力基盤の土台がぐらついて動揺している時に実施されることが多い。私の心眼では安倍総理自民党の国会議員たちは、オウムと神戸の地震の関連性を追求されることをかなり恐れているように推察される。それから今回のオウム死刑の判断は、法務省或いは日本政府による内部的な決定なのかどうかも疑わしい。アメリカか何かの外国勢力による指示があったのではないのか。しかし真相の隠蔽確定が動機であるならば、日本政府もそれ以外も同じ穴の貉であろうから結局は同じことなのであろうが。関連して言えば、麻原が本当に死刑執行できる状態であったのかどうかも本当のところはわからない。心神喪失状態で記憶も判断能力も認められないような人間に対して死刑を実施することに意義や意味があるのかは大いに疑問である。報道では意思疎通は全くできない状態であるのに食事や体操などは自分の意思で出来ているので精神的な機能は正常であるということであったが、一般的に考えてそれは不自然である。精神的な機能が正常であるならば、本来は多少の拘禁反応があるにせよ最低限の意思疎通は外部の者とできるはずである。独り言以外の会話がまったくできない状態で死刑が執行されたのは日本の死刑史の中で見ても麻原だけなのではなかろうか。どのような大悪人であろうとも自らの強制的な死が迫ってくると、再審請求をしたり良心の呵責を見せるなどの何らかの反応が見られるものだ。麻原に関してはそういうことが一貫してないままに死刑に処せられたことは異例であるし、穿った見方をすれば死の前に余計なことを喋られれば困るがゆえに食事に何らかの薬物が混ぜられていたのではないかなどとも思えてしまうものである。今回の死刑執行は真相を永遠に闇の中に葬り去ることが目的でなされたものである。