龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

短編『不動明王』2


私は人生のぬかるみに首まで突っ込んでいるのである。優雅に詩など作って感傷に耽っている境遇ではな

いのだ。本来ならとうに離婚していて当然で、現在妻と婚姻関係が継続していることが不自然であるとも

いえる。私も正直なところ、一刻も早くあの馬鹿女と縁を切りたいとは思うのだが、子供のことを考える

とどうしても踏み切れない。なかなか、つらいところではある。今でも、妻から私の携帯メールに「何々

の状況で至急、何万円送金してください。私と息子は大変不自由な思いをしています。あなたは息子に会

う資格がありません。」というような内容文が送付されてくる。弁護士を通せと何度も言ってあるのに無

視している。私がそのような直接の要求に動揺して応じてしまうと計算しているのだ。馬鹿は馬鹿なりに

いろいろと考えているようである。まあ、私も馬鹿だけど。そのような内容のメールを受け取ると何か鉛

を呑み込まされたような気分になって、恥ずかしながら飯も喉を通らなくなってしまう。その度にメール

文を弁護士に転送して指示を仰ぐことになる。そのような状況なので精神的に不安定になり心が弱ること

もある。時には神仏にすがりたくもなる。私にはいきつけの、というとなんだかBARのようであるが、

よく行く寺がある。山の中腹にあり霊験あらたかな天部の神が秘仏として祀られている。本尊は不動明王

だ。私が初めてその寺に参拝したのは中学生の時分通っていた塾から高校受験の祈願に連れて行ってもら

った時であった。その後、人生の折々に何度かその寺に足を運んでいた。私は元々はそれほど信心深いほ

うでもないので、行かない時には何年も行かない。しかしある程度年を取ってきて人並みに悩み事が多く

なってくると足繁く通うようになってしまうのは、まあ人情というものだ。私は誰にも言わないで、そっ

と一人でその寺に参拝にゆく。しかしその日に限って、妻は何だかんだと私の携帯にメールを送りつけて

くるのである。何だか私が参りに行くのを邪魔しているようでもある。私が神仏の加護を得ようとすると

妻のよこしまな心には不安がよぎるのであろうか。そんなことを考えると人知れず、束の間ではあるにせ

よ愉快な気分になる。その日も、私は子供との面接を取り消されて打ち沈んでいた。それでその寺に参る

ことにしたのである。しかし堂宇を巡り手を合わせ続けても私の心が晴れることはなかった。それで、そ

ろそろ帰ろうかと思ってお守りやお札を売っている寺務所の所で無料の冊子が置かれてあるのを手にとっ

て眺めていた時である。私から少し離れたところに立っていた50代半ばから60歳位と思しき男性の参

拝客が、おみくじ売場の前で窓口に座っている寺務員と話している声が聞えてきた。ご利益の話しであ

る。内容は以下のようなものであった。その男性が以前その寺のおみくじを引くと大吉が出たという。そ

のおみくじには「上限を超えて天まで上昇する」と書かれていた。その男性はその時、ある製薬会社の株

を持っていて連日のストップ高でそろそろ売ろうかと考えていた。その時に売っていても200万円ほど

の利益があったとのことである。しかしそのおみくじの文面を見て売るのを止めた。結果、その株で後に

5000万円の利益を手にしたということである。寺務員も興味を引かれたようで「いつ頃の話ですか。

バブル期のことですやろ。」と言っていた。私もまた4~5メートル離れたところで黙って聞きながら、

いたくその話に心をそそられた。私は、ほとんどおみくじを引かない。信じる信じないの問題ではなく私

は生来くじ運の悪い男なので金を出してまで不愉快な思いをしたくないのだ。でもその話しを聞きなが

ら、(ほう、おみくじ一枚でそんなご利益があるのか・・・・・・)と思うとそれじゃ私も試しに1枚引いて見

ようと考えてしまうのである。私は基本的に単純な精神構造の持ち主なのだ。それで引いてみると“凶”

が出た。思わず心の中で“ぎゃぁ”と叫んだ。その寺のおみくじで“凶”は7つか8つあるランクの中で

一番下なのである。そもそも私は、心が弱っているがために寺に参りに来ているのだ。それが事もあろう

に“凶”を引いてしまった。思わずよろめいてしまって、このままでは帰れないという気になった。それ

で帰るのをやめにして奥の院に通じる石段を登り始めた。高所にある奥の院まで登るのはちょっとしんど

いので当初省略するつもりだったのである。奥の院にある不動明王を祀ってある本堂に行ってみると、受

付の所に特別祈祷5千円と書かれているのを見た。その時“これだ”と思った。私はきっと厄除けをして

もらわなければならないのだ。それで早速申し込むことにした。寺院でご祈祷してもらうのは初めてであ

る。堂守の職員がご祈祷の趣旨について聞いてくれる。私は正直に夫婦間で紛争が続いていて子供にも会

えずつらいのだと説明する。職員は適当に相槌を打ちながら私の名前や住所、願文などを帳簿に書き込ん

でいる。しばらくすると僧侶がやってきた。私は内陣に入り本尊である不動明王像前の様々な法具が置か

れている脇に座る。通常、不動明王の修法というと護摩を焚く光景が想像されるが私の場合は火を焚くこ

とはなかった。頼めばやってくれるのであろうが、当然料金は高くなるのであろう。その日、密教の正式

な修法というものを初めて目の当たりにして何かしら深く感じ入るものがあった。僧侶というのはやはり

祈ることのプロなのである。僧侶の読経にしたがって、その場に高まり満ちてくるエネルギーが感じられ

た。ただ私が特に感じたのはこういうことである。“祈り”というものは我々素人にとってみれば“心”

を込める度合いに従って願いが適うというような思い込みがある。しかし密教の祈祷というものはおそら

くそういうものではないのだ。僧侶には私が見る限り心がこもっているようではなかった。しかしエネル

ギーがある。そのエネルギーはきっと心から生まれているのではなく祭壇の法具や祈祷の手順、作法にこ

そあるのだ。そのことに私は純粋にすごいと思ってしまったのである。密教というものの本質を(といっ

ても私のような素人が感じるほんの入り口にしか過ぎないが)感得したような気に勝手になってしまった

のである。ただしご祈祷願文について僧侶が“家庭円満”と唱えているのを聞くと、もうそういう状況で

はないんだけどなと思ってちょっと複雑な気分になった。祈祷が終わり最後に塗香といって香を体につけ

るお清めをする。私は僧侶に、「ありがとうございました。感動しました。」と小泉さんのようなセリフ

を言った。それが正直な感想だったからである。僧侶は一瞬、怪訝そうな顔をして黙って一言「それで

は」と言ってお堂から出てどこかに戻っていってしまった。ご祈祷を受けにくる人はみなそれぞれ深い悩

みや苦しみを持ってやってくる。もちろん私もそうなのであるが祈祷後に「感動しました。」などと言っ

た人間は、もしかすれば私が初めてだったのではないだろうか。私はやはりどこか人と変わっているのか

も知れない。