龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 49

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今回この『信じぬ者は救われる』(かもがわ出版)をテーマに論評するのは、前回の続きだからである。

哲学者デカルトはあらゆる事を懐疑した末に、“我思う、ゆえに我あり”との真理にたどりついた。私

は、信じぬこと、常識への批判が知性のベースになるものだと常々考えている。しかし我々が普通に日常

生活を送る限りデカルトのように肉体や世界の存在まで否定して考えることは出来ない。ラーメン屋の店

主はおいしいラーメンを作り続けることによって暮らしてゆくことができる。ラーメンを作りながらデカ

ルトの命題を考えることはできないし、ラーメンの実体は否定しようがない。私もまた同様である。生活

に必要な常識的な考えというものがあるのである。

ならば現代社会を生きてゆくうえで知性の土台となるような、疑うべき“当たり前”とは何か。私はそれ

を身の回りの情報、特にテレビだと思うのである。今回は精神科医香山リカ氏と物理学者、菊地誠氏の

対談を材料に疑うことの意義について考えて見たい。

先に個人的なことを言えば私は無宗教ではあるが無神論者ではない。神は存在すると思う。なぜ信じるの

かと問われれば超越的な観念を説明するのは難しいが卑近な例を示せばこういうことになる。たとえば私

が詩やエッセイを書くために神について思索を深めている間は思考回路があっちの世界に行ってしまって

いて仕事に集中できず、正直なところ日常生活に差し障りがあると言える。しかしそのような時に不思議

とまとまった大口の注文が入ってくることが多い。神について考えることの時間的損失の代価が仕事の受

注増で補われるのである。だから誰一人として読む人がいないようなブログを継続して書こうという気に

なる。一般的にはそんな馬鹿なと言われるだろう。たとえ神が存在するにしても、そんな単純に分かりや

すく人間の声に反応することはあり得ないと言われるだろう。しかし、そうだろうか。私は意外と神の摂

理は単純だと思うのである。神も人間と同じように褒められたり、もてなされると喜ばれるのではないで

あろうか。たとえば神の偉大さを讃える古代の叙事詩「バガヴァッド・ギータ」の作者はそれなりの実利

をご利益のように得ていたのではないかと私は想像する。しかし私の場合必ずそのようなパターンが確定

しているかというと決してそうではない。もしそうなら私は仕事を放棄して考え、書いてさえいればよい

ということになるがそういうことにはならない。実験的に神を試そうなどと大それた気持ちでいると反対

にとんでもなく惨憺たる結果になりそうな気がする。また冷静に考えると、年間を通した売上の推移は不

況の影響で確実に減少しているのでやはり思い過ごしに過ぎないのだと思う。浮世離れしたことなど考え

ずにもっと金儲けに専念しなければならないと反省したりする。このように私の思考は肯定と否定の領域

を行ったり来たりの繰り返しである。それでもどういうわけか神の存在は明確に信じている。ご利益がた

とえ偶然であっても、それは神不在の証明にはならない。私にとって信じることは客観的な裏付けなしに

信じることであり、生きることは疑うことなのである。矛盾しているだろうか。神をどのように定義する

かにもよるのであろうが、私にとっては宇宙の創造者であり無条件に肯定すべき対象が神なのである。デ

カルトのような哲学的証明にはなっていないかも知れないが、私もまた“否定”が世界を見据える出発点

であり生きる上での基本になっている。私は神の内部で疑うのである。


『信じぬ者はすく救われる』のポイントというかキーワードは2点ある。

第一  主観と客観の区別

第二  マーケティング

先ず第一から思うところを述べたい。生きていく上で主観と客観の区別は3パターンに分けられると思

う。自分ひとりが思うこと、考えること、感じる度合いは100%が主観である。人間の五感などあてに

ならない。その時の気分や好き嫌いの感情によって脳は世界を自分勝手に判断する。あの娘が淹れてくれ

たコーヒーは格別に美味しい、あいつと一緒にいると息が詰まりそうだ、あの人の言うことは信用できる

かも知れない、どれもこれもその人の主観である。人間は基本的に主観で生きている。主観に科学は不要

であり、むしろ邪魔である。その次は、家族や友人、恋人などと感動や悲しみなどの感情を共有する場合

である。この時にも主観が基本になっているが半分は客観である。コミュニケーションとは感情を通じて

誰かと世界を共有することであり、時に主観と客観が溶け合い一体化する。最後はビジネスなどにおける

契約や取引、宣伝広告、教育、歴史、医学、建築などである。これらは100%客観性の領域である。科

学の裏づけが必要とされ個人的な思い込みが入ってはいけない。不特定多数の人間を相手にするものなの

で当然であり、そこには公の責任が伴う。

これらは本来、言うまでも無く当たり前のことだと思われるのだが“わかっていない”人間がやたらと多

い。だから世の中には“だまされた”と言って怒っている人々が無数に存在する。しかし私は“だまされ

た”という言葉の使い方、用法に昔から疑問を抱いてきたのである。具体的な例をあげてその理由を述べ

ることにする。

子供が原因不明の難病に罹って治る見込みがない。このままでは余命いくばくも無い。藁にもすがる思い

で有名な祈祷師に見て貰う。このようなケースは現実に山ほどあることである。すると祈祷師は子供の病

気は前世の因縁だと言う。それでどこからか美しい観音仏の絵が描かれた掛け軸を持ってきて、この掛け

軸を床の間に飾り毎朝この観音様に向かって一心不乱に拝みなさい、そうすれば悪業は浄められ子供の病

気は徐々に回復してゆくであろうと告げられる。親は祈祷師の言うことを信じ、全財産をなげうって50

0万円でその掛け軸を買い、毎朝観音様の絵の前に座って観音経を唱え子供の病気が治るよう拝み続け

た。ところが子供は回復の兆しもないままに一年後に亡くなってしまった。親は祈祷師にだまされたと思

う。それでその掛け軸の価値を専門家にみてもらうと時価千円程度で売られているものだということがわ

かった。ますます許せなくなり祈祷師を裁判で訴えて500万円取り返そうとする。このような訴えはは

たして認められるであろうか。

行列のできる法律相談所』ではないが、これは社会的に信仰と取引の関係を考える上での最も重要な問

題だと思われる。結論から言うと私は親の訴えは認められないと思う。医薬品や健康食品は薬事法の制約

があって科学的な裏付けがないものを効果があると謳ってはいけない。しかし信仰は規制対象外である。

信じる、信じないは個人の内面の問題であって権力が踏み込める領域ではない。親が掛け軸を500万円

の価値があると信じて購入しているのだから、その取引はきちんと成立していると考える。子供が不幸に

も亡くなってしまったことはあくまで結果論であって掛け軸販売が不法に為されたということは出来ない

と思う。もちろん現実の裁判ではどのような判決が出るかわからないが基本的な考え方としてはそうだと

思う。ならば法律を離れて道徳的には誰が悪いのだろうか。常識的には時価千円の掛け軸を500万円で

売った祈祷師が悪いに決まっている。しかしよくよく考えれば本当にそうだろうか。祈祷師が効果がない

ことをわかっていてそのような高値で売ったのであれば、“だまして”いたのだから祈祷師は悪人であ

る。しかし祈祷師が心の底から効果があることを信じていて本当に子供を救ってあげたいという気持ちが

あったのであれば必ずしもその祈祷師を悪人だと決め付けることは出来ないのではないだろうか。祈祷師

が本気で信じていたからこそ親もまた同じように信じたとも言えるのである。祈祷師が居直って、それな

らいくらの値段でなら売ってもいいのか言ってみろと凄まれれば誰にも答えることはできない。100円

仕入れた物を150円で売ったり、200円で売ることによって我々の資本主義システムは成り立って

いるのである。だからこれはとても難しい問題なのである。

個人的な見解で言えば、そもそも信仰で病気が治ることなどあり得ないと考える人もいるであろうが私は

そうは思わない。観音様が難病を治してくださることは十二分にあり得ると思う。しかしその掛け軸の絵

でなければならないとか、その祈祷師でなければならないということは絶対にあり得ないはずである。心

の領域が特定の物や人に限定されたり、支配されるということがそもそもおかしいのである。しかし“だ

まされる”人の特徴は奇妙な権威付けが絶対的な判断基準になっていて、あの人でなければいけないとか

あの場所、あの物でなければならないと言い張って聞かない。そういう人間に老婆心で何かを忠告しても

無意味である。そのような柔軟性の欠如、不寛容がカルトの特徴だと私は思う。それでこのケースでは親

は祈祷師に“だまされた”と言えるのであろうか。私は“だまされて”いないと思う。無知や思考レベル

の低さは最終的に誰かに操作されるのが当然でありその相手が時に祈祷師であったりTVであったり、政

府であったりすると思うのだが、このような私の考えは間違っているであろうか。

主観と客観、信仰における心の領域と誰かに“だまされる”ことの関係性を日本人はもっとよく考えるべ

きだと思うのだが言ってわからない人間には何を言ってもわからない。分からない人間とは頑なさで自分

を保護しようとする人種であり、知能指数や経済力、社会的地位とは無関係だと思われる。

第二のマーケティングの話しは長くなるので次回にする。



「それにしても夢とも、現実ともつかぬ奇妙な幻覚の中に、自分は居たと、架山は思った。自分ばかりで

なく、大三浦もまた同じ幻覚の中に居たのであろう。

燦として列星の如し。―そんな言葉を、今になって架山は思い出していた。つらなる星のように、十一面

観音は湖を取り巻いて置かれ、一人の若者と一人の少女の霊は祀られたのである。」

『星と祭』 井上靖    角川文庫