龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 48

イメージ 1


デカルトの有名な言葉である「われ思う、ゆえにわれあり」の“われ”とは肉体から離れたところの心身

二元論的な“われ”であることを『方法序説』を読んで初めて知った。

デカルトは自らの生き方における格率(自己規則、信念)として、以下三点をあげている。

1、良識ある人々の、極端から最も遠い穏健な意見に従って生きていく。

2、行動においてもっとも蓋然性の高い意見に従い、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であ

るときに劣らず一貫して従う。

3、「必然を徳とする」ことによって、運命よりも自分に打ち勝つように、世界の秩序よりも自分の欲望

を変えるようにつねに努める。

これらは現代社会にも十分通用する教訓であり処世術であるといえる。デカルトは変人などではなく、一

社会人として成熟した大人の男であったようである。

ところが真理の追究においては一切の妥協を排し、凡人には到底及ばないような境地で思索を重ねた。自

己を含め外界のあらゆる存在を偽として廃棄し、最後に残る疑い得ない明晰な確実性とは何かを考えた時

に、全てを否定しようとするこの私だけはどうしても否定できない。だから「わたしは考える、ゆえにわ

たしは存在する」という命題を哲学の第一原理としたのである。

そこでデカルトのいう“わたし”とは身体から区別されたところに存在し、思惟することを本性とする魂

なのである。またわたしが存在するところの真理を保証するものは、考えるためには存在しなければなら

ないことを明晰にわかっている以外には何もないことを認め、きわめて明晰かつ判明に捉えられ得ること

を一つの命題が確実で真であることの一般的な規則とした。

しかしわたしが存在することが確実であっても疑うわたしは完全ではない。なら完全でないわたしが自分

よりも完全な何かについて考えることをいったいどこから学んだのかを探求するときに、それは完全性の

ある本性から学んだに違いないことが明証的である。わたしの存在よりも完全な存在の観念については、

わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれたということであり、それは神である本

性である。これがデカルトによる神の存在証明なのだが、注釈にも書かれている通り完全性の観念がわた

しの外部に存在することの証明があいまいである。完全性を備えた存在を神と定義することに異論はない

が、完全性(神)について考えることは神と神を信じる人間の相互関係についての内面的な問題であり神

の存在証明とは無関係だと思われる。無神論者にとっては、神は人間の創造物に過ぎないのである。

私(筆者=吉川)は神が存在することについて明晰な観念を持っているつもりだが、それは他者に証明で

きるようなものではない。デカルト幾何学の探求において至高の存在(神)が観念のなかに含まれてい

ることを見出したようであるが、私はむしろ人間や物質が神の観念のなかに存在するように感じられる。

万能なる神が思考を中断した刹那に消滅してしまう人間は、たとえ自己(わたし)の存在を証明し得ても

神の存在証明をなすことは永遠に不可能なのではないだろうか。神の観念によって生み出された人間はた

だ神を思い続けることによってのみ神性を高めることが出来るであろうが、そもそも神の存在を前提にし

た思考は外部への証明にはならない。我々の存在そのものが一つの奇跡であり神の一部であると考えれ

ば、奇跡の内に奇跡はなく神の内に神はない。地上にあるのは神を利用せんとするまやかしばかりであ

る。デカルトに張り合うつもりは毛頭ないが神は人間にとってどこまでも信仰対象であり、論理的に証明

すべきものではないと思う。

私は『方法序説』を読んで、デカルトの思考と仏教との関連を考えた。デカルトは全てを疑ったが本当に

無いとは言っていない。真理を追究するための絶対確実な原理を基礎づけるための方法として否定したの

である。

―それから、わたしとは何かを注意深く検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、

自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。

反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わ

たしが存在することが帰結する。―

デカルトの否定は仮想なのであって、結局は“精神”と“物質”の二つを実体として認めた。“精神”は

脳内での活動ではなく、肉体に依存しつつも考えることを本質とする魂である。それは分かるがデカルト

が実体として認めるもう一つの“物質”についての考えはユニークかつ難解である。デカルトは物質の本

質を空間における長さや幅、高さ、深さなどにおける無際限の拡がりであるとした。そこから幾何学的に

たとえば三角形であれば三つの角の和が二直角に等しくならなければならないとか、あるいは球であれば

中心から等距離にあるなどの観念によって物質の存在を措定しているように私は理解した。難解ではある

が“精神=魂”との対比で考えればわかるような気もする。魂は大きさや、重さがなく存在する実体であ

る。物質は本来、形而上的には無限の拡がりを有しているのだが、我々は共通観念(規則)によってその

一部を認識しているということなのだろうか。


仏教は実体を否定する。般若心経の否定は徹底している。

照見五蘊皆空、度一切苦厄

(人間存在における物質と精神を含めた一切の要素が空であることを見極めた時に、苦しみから脱するこ

とが出来るのである。)

是諸法空想、不生不滅、不垢不浄、不増不減

(この世の全ての存在、現象には実体がないゆえに、生まれるもの滅ぶものもなく、汚れたものも清らか

なものも無く、増えたり減ったりすることは無い。)

是故空中無色

(空であるがゆえに形あるものは無く)

無受想行識、無限耳鼻舌身意

(感覚や想念、意志、知識や全ての感覚器官も無い)

無色声香味触法

(形、音、香り、味、触覚、心の趣くところも無ければ)

無限界乃至無意識界

(それらを感受する全ての意識は無く)

無無明、亦無無明尽

(無知も無ければ、無知が無くなることも無い)

乃至無老死、亦無老死尽

(老いや死も無ければ、老いや死が無くなることも無い)

無苦集滅道、無知亦無得

四諦である苦集滅道は無く、知ることも得ることもない)


生きることは苦しみの中にあるということが仏教の出発点である。私自身、自慢じゃないがこれまで生き

ていることが楽しいと感じたことは一度もない。仏教は生の苦しみから人間を救うための教えである。苦

しみの原因は物質や感覚、心に対する執着にあり、それらの本体が実は空であって実体無きものであるこ

とが分かった時に我々の怖れや苦しみもなくなるのだと導いてくれるのである。ならば仏教的な悟りにお

いて、あるいはその途上で我々肉体や世界が消えてなくなるかといえばそうはならない。実体なき世界は

一面とても堅固なのである。しかし空を感得することによって自分にまつわる原因と結果を好転させてゆ

くことができる。仏教は真理に根差したより良く生きるための深い知恵なのである。デカルトはあらゆる

ことを一旦否定した後にわたしが存在することを認め、そこから神の存在と神が創造した実体として精神

と物質の二つを認めた。ここには仏教とキリスト教の違いが見られる。(デカルトは生後まもなくカトリ

ックの洗礼を受け、10歳から18歳まで在学したラ・フレーシュ学院はカトリックイエズス会の学校

であった。)仏教が生の苦しみから人間を救う教えであるのに対してキリスト教は万物を創造した唯一の

神と人間の関係を問いかける。キリスト教においては神と人間と贖われるべき罪(精神)はどうしても否

定しきれない本質なのである。だからデカルトの証明は最初から答えが決まっていたとも見れる。キリス

ト教は個々の人間の苦しみではなく、人間の創造そのものを問題にする。だから進化論がキリスト教の教

義と対立し論争される。仏教は人間誕生の歴史についてなど一切考えない。仏教に神は不要であり、必要

なのは人間生活にまつわる時空を超越した法則なのである。ならば仏教とキリスト教は対立し補完しあえ

るものではないかというと私にはそうは思えない。たとえば生きる苦しみそのものを見つめて表現するこ

とは自分を離れて他者を思う仏教の道であり最終的に自分自身も救われるのだと思う。神について考える

ことは人間の根源に立ち返って自らの魂と神との関係性を探求することである。神について思索すること

で時には天使の加護を得られているのではないかと思える時もある。

私にとっては仏教とキリスト教は対立するものでも矛盾するものでもなく、ほどよく自己内部で融和して

いるのである。『方法序説』を読みながらそんなことを考えた。



法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実をあたえるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守され

るときのほうがずっとよく統治される。

方法序説デカルト著谷川多佳子訳  岩波文庫