龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 47


私のイヤな感じは、翌日の朝に早くも現実化した。妻からこのような携帯メールが届いたのである。

“マンションの洗面台の下の引き出し(前にもはずれた)を○ちゃん(息子の名前)が壊して、二人で直

して見たけどすぐはずれる。直してくれないかな?”

私の両膝が震え始めた。恐ろしい天然ぶりである。フェリーニの映画に出てきそうな女だ。これは徹底的

に言わなければ駄目だと悟った。洗脳するぐらいに。やはり前日の“離婚について前向きに考える”とい

う発言は信用できないものだった。おそらく妻は時間をかけて夫婦としての既定事実をもう一度積み上げ

ていけば、私の離婚決意を改めさせることが出来ると企んでいるのであろう。一ヶ月ほど前にはマンショ

ンの風呂に入りに来いという要請が弁護士を通じて為されていた。それで私はその日何度かのメールのや

り取りの中で、かなりきついことも妻に言った。妻からは“今の言葉深く傷ついた”と返信されてきた

が、そんなことを言われても仕方がない。傷ついてもらう必要があったのである。

それでその翌日15日土曜日のことである。ついに観念したのか“離婚後のことを相談しよう”とのメー

ルが妻から入った。私としてはこの時期に妻と二人で会って話し合いをするのは避けたかったのである

が、“離婚後のこと”と言っているので止むを得ない。当日息子がスイミングスクールに行っている間の

一時間ほど、近くの喫茶店で会って話し合うことになった。待ち合わせ場所に妻はかなり大判の紙包みを

手に持って現れた。何を持っているのかと思っていると、喫茶店に着くなりこれを見てやってと手渡され

た。息子が小学校で描いた画集であった。妻が言うには息子は絵が上手だと思うということであった。話

しが長くなったが、上の画像はその中の一枚なのである。私は息子のスイミングスクールが終わるまで時

間が一時間しかないので家でゆっくり見ると言って預かった。土曜日は子供との面談日であり4時には私

がスクールに迎えに行かなければならなかったからである。それで妻と面と向き合って離婚について話し

合うことになった。

妻は初めに離婚訴訟は避けたいと言った。その点では私と思惑は一致しているようであり少し安心した。

妻にしてみれば、訴訟での離婚は世間一般的な養育費しか受け取れず、またマンションから即座に退去し

なければならないことを意味しているので経済的な理由から本来当然なのである。その上で子供の教育に

ついて他の親たちが熱心なので子供を“学研”の塾に行かせたいといって資料をもってきていた。今習わ

せているのは週二回の水泳だけである。 “学研”の塾代について聞いてみると結構安かったので離婚の

成立を前提に了承した。そもそも私は息子のためなら離婚後も出来る限り金銭的な給付をしてやりたいと

いう気持ちで親権を主張しているのだから反対する理由はない。次に市から受給している児童手当につい

て、現在私の銀行口座に4ヶ月ごとに送金されているのだがそれを譲って欲しいと依頼された。妻が福祉

課に問い合わせたところ親権者の同意が必要であるということのようだった。それについても了承した。

さらに妻は息子を私立中学に進学させる可能性について言及したが、それについては言下に無理だと答え

た。私立中学に行かせることは必然的に高校も含めた6年間私立ということになる。それは私の経済力で

は負担が大き過ぎる。将来、医者か弁護士になるというなら話しは別だが、息子を見ている限りそのよう

な雰囲気はないので公立で十分だと言った。妻も納得したようだった。私立中学や私立高校に通っている

生徒の何パーセントかが、毎年親の経済的理由で中退しているという新聞記事を見たことがある。今の時

代の子供たちはそのような挫折に陥る危険性のすぐ隣り合わせのところで生きている。人ごとではないの

だ。その他、健康保険の被扶養を外して欲しいとも頼まれた。母子家庭の方が医者に掛かったときの負担

が少ないらしい。もちろん私に異論はない。そんなこんなで僅か1時間ほどの打ち合わせであったが、実

りある話しが出来たような気がする。妻は具体的に離婚について考えてくれているようだ。私の心にもや

っと暖かな春の日差しが届き始めたように感じられた。最後に離婚後も2ヶ月に1度ぐらいは子供のため

に一緒に食事をしようと約束した。


私が離婚にこだわる理由は妻とのこれまでの泥沼のような紛争劇やそれらによって決定的に修復不能な状

態になっている夫婦関係にあることはあえて言うまでもない。しかしそれ以上にいやそれ以前に“結婚”

という制度の枠組みに押し込められた状態が正直なところ私にはどうしようもなく我慢ならなくなってき

ているのである。妻は私にとってある意味、不倶戴天の敵である。呪詛の対象である。しかし一般には理

解されがたいかも知れないが籍を外せばいい協力関係を取り結ぶことが出来るのが私には見えているの

だ。唯一のかけがえのない子供の親同士として安定した豊かな関係性を構築できるはずなのである。なら

ばどうして家庭の中でそれが出来ないのかと言われれば、私には家庭が政治化され過ぎているからとしか

答えられない。母は、女は、何かの代理戦争を家庭で闘わされているように私には見える。権利意識だけ

が肥大化させられた結婚は当初から先鋭的な対立意識が織り込まれているのである。家庭に政治が投影さ

れているのだ。私は息子にトーベ=ヤンソンの童話『たのしいムーミン一家』(講談社 青い鳥文庫)を

音読させているが、その中にこのような話しがある。ムーミントロールたちはかくれんぼをして遊んでい

た。ムーミントロールは部屋のすみにあった黒いシルクハットを見つけ、ぼうしをさかさまにしてその下

に隠れた。ところがそのシルクハットは魔物のぼうしでその中にいると変な姿に変わってしまう。ふとっ

ていた部分はみんなやせてしまい、やせていた部分はのこらず太ってしまった。スニフやスナフキン、ス

ノークのおじょうさんたちは姿がかわってしまったムーミントロールが誰だかわからない。ムーミントロ

ールがいくら訴えても信用されなかった。ヘムレンさんには、おまえは偽者だと言われた。けれどもムー

ミンママだけは違った。ムーミンママはおびえきっている息子の目をのぞきこんで静かにいった。「おま

えはたしかにムーミントロールだわ。」そのときにムーミントロールはもとの姿に戻ったのである。

ここまで言えばおわかりかとは思うが、現在の政治化されている結婚や家庭は魔物が潜む黒いシルクハッ

トのようなものであるということを言いたいのである。姿の変わった息子を本物だと見抜く“ママ”自身

が、魔物のぼうしで変形させられていることの嫌味を私は言っているのである。ほとんどの人間がそのよ

うな見解に対してそうではないと声高に否定するのはわかっている。しかし絶対にそうではないと言い切

れるか。資本主義の長期サイクルにおける爛熟、退廃プロセスでは“家庭”までもが権力によって利用さ

れ、蕩尽せられるのである。私を単なる変わり者(変形した者)扱いするのは世間の勝手だ。しかし自分

で言うのも何だが私は、品行方正とまでは言わないけれど知性や感性がきちんとしているにも関わらずこ

れほどまでに家庭の中で苦労しなければならないという事実は、やはり私ではなく日本社会がおかしいと

結論付けざるを得ない。むしろ私はきちんとし過ぎているのである。世の中と同程度に歪み、腐っていか

ないお前が悪いのだという論理は受け容れられない。私は詩人だ。詩人の魂は社会論理に勝るのだ。誰が

何と言おうと、詩人の苦悩は来るべき新しい時代の何かを先取りしているのである。だから詩人の仕事は

苦しむことであり、詩人の苦しみには社会的価値が存在するのである。

離婚してこそ安定する関係というものを自らの人生に具現化させることによって、私ではなく私以外の常

識や道徳がいかに歪んでいるかということを、社会欺瞞や政治化された家庭が子供たちの不幸の原因であ

ることを知らしめなければならない。私は自分の価値観や生き方を誰かに押し付けるつもりは毛頭ない。

人それぞれに事情は異なる。しかし選択肢の一つに過ぎないものに、新しい人間関係や愛の形がひいては

日本の新しい未来を創る可能性が秘められているのだということを言いたいだけである。要するに離婚後

共同親権を認めろということだ。

それよりも私は、はたして本当に離婚できるのであろうか。あの女のことだから、次回期日にやはり離婚

したくないと言い出しかねない。それを考えると心配である。夜も眠れず、飯も喉を通らずというほどで

はないにしても。15日の喫茶店での話し合いの別れ間際、私は妻に対して「次の調停の時は、頼むで」

と思わずお願い口調で言ってしまった。妻は笑っていた。普段考えたり書いたりしていることのスケール

は大きくてとても偉そうだけれど、現実の生活ではちょっと弱気な私である。弱気は詩人の属性だから止

むを得ないのだが。



しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更正していくものがた

り、その人間がしだいに生まれ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく

知らなかった新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、―

このものがたりはこれで終った。

罪と罰ドストエフスキー 新潮文庫