龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

短編『不動明王』3


その後、堂守の男性寺務員がお茶を入れてくれていろいろと話しをしてくれた。元気がない私を見て励ま

そうとしてくれたのであろう。僧侶ではないが仏教についてはいろいろと勉強しているようだった。心に

残る、いい話しも聞かせてもらえた。“無常”についてである。「常には無い」ということの意味は一切

のものは生滅・変化していて常住でない、ということである。“諸行無常”の諸行とは、因縁によってつ

くられた現象世界の一切の存在という意味である。よって諸行無常の言葉が教えるところは、我々の目の

前の現実というものは全て過去からの因縁によって形成されているものであるがそれらは決して固定的な

ものではなく必ず変化し移ろいゆくものだということである。庭にある大きな石は永遠に石の姿を保ち続

けるように見えるが悠久の時間で見ればそうではない。必ず変化する。我々の肉体も同様で人間は必ず死

んでいく。変化しないものは何一つないというのが世界の実相なのである。日々の生活における状態も同

じであり、今悲しいとか、今苦しいと感じていてもその状態は必ず変化してゆくのである。本人の努力や

能力とは何の関係もない。ただ変化し移ろいゆく時間の流れに身を任せればよいのだ。この話しを聞いて

救われたような気持ちになった。そしてこの教えは現在“いじめ”を受けていて自殺を考えているような

小学生や中学生の子供たちにこそ、是非聞かせてあげたいものだと思った。今、“死にたい”と思う状況

があってもそれは一時的なものであり長続きはしないのである。私も、まあ妻から“いじめ”を受けてい

るようなものなので時には死にたいという気持ちになるのもわからないではない。でも決して死んではな

らない。一時的なものを永遠だと錯覚してはいけないのだ。人間、正しい知恵に達すれば救われるのであ

る。その日の夜、自宅の部屋でぼんやりと椅子に座っていたときのことである。11時頃だったのでご祈

祷から8時間ぐらい経っていた。ふと、心に巣くっていた重く憂鬱な気分がにわかに掻き消え、澄みやか

になってゆくのを感じた。風邪を引いて熱があり体がだるい時に点滴を打ってその効き目が現れたような

感覚であった。それだけのことではあるが確かに“験”はあったのである。ほう、これは凄いと思った。

そしてその瞬間に悟り得たことがある。その日、引いた凶のおみくじに書かれていたことを思い出した。

「流れが澱んで溜まった水は腐敗する」というような内容であった。それは私の心の状態を言い当ててい

たのである。子供に会えなくさせられてつらいと感じる。しかし、そこに心を留めてはいけないのだ。心

も万物の摂理にしたがって流れていかなければならないのだ。私は何かあるとその地点をじっと見続けて

しまう傾向がある。集中しているとも言えるが心が止まっているのだ。自殺する子供たちと同じだな、と

思うとその日の昼に聞いた堂守職員の話に繋がった。それでああ、なるほどと了解した。おみくじ売場の

近くで男性の参拝客がご利益により株で大儲けした話しを聞く。その話を聞いて私もおみくじを引いてみ

ようという気になる。実際におみくじを引いて“凶”が出る。帰るのを止めて奥の院に向う。奥の院本堂

でご祈祷してもらう。堂守の職員からありがたい話を聞く。それぞれの偶然の出来事が一連の因果をなし

て私は不動明王のもとに導かれたのだ。仏法とはこのようなものだと体験を通じて教えられたのである。

もちろんあるレベルで見ればこのような抹香臭いともいえる話は全てこじつけである。しかし我々の現実

は、幾層もの透明のフィルムを透過した光によって映し出されている多層構造体の映像のようなものであ

る。(もちろん私にはそのように感じられるというだけのことである。)1枚、1枚のフィルムはそれぞれ

異界へと通じる扉を持っているのではないであろうか。でもフィルムは実体のないものでもあるので多層

状になっていることやフィルムを通過する際に微妙に像(現実)が歪められることを我々は感知できない

のかも知れない。宗教もまた1枚の透明フィルムである・・・・・・と、私は考える。

その日のささやかな体験で、私はちょっと元気を回復することができたので不動明王のご祈祷を心ひそか

に“1回5千円の心のにんにく注射”と呼ぶことにし、月に1回は受けることにしようと決めた。(といっ

ても本当はにんにく注射を打ったことはないので随分、適当な呼び名であるが。)5千円で心が晴れるの

であれば安いものである。それでその日から約1ヵ月後にまた、その寺にご祈祷を受けにいくことにし

た。ただしその日、ちょっと迷うことがあった。前回の祈祷の時に僧侶は“家庭円満”と唱えていた。そ

れは私の心の意図するところとは、ちょっと違うのである。私は仮にも妻と闘っているのであるから本音

を言えば私は妻を、あの馬鹿女をやっつけて欲しいのである。でも、正直に「私の妻をやっつける祈祷を

してください」などとは言えない。もしそんなことを言ったところで追い返されるのがおちであろう。本

来、密教の修法には息災や増益のほかに“調伏”というものがある。“調伏”を辞書で調べると「怨敵・

魔障を降伏(ごうぶく)する」の他に「人をのろい殺すこと」とある。これは、困ったなあと思う。別に

のろい殺してまでしてくれなくともいいのだ。子供の面倒を見ていることでもあるし。そもそも私は妻を

憎んでさえいないのだ。ただただ厄介であるという一言につきる存在ではあるが、憎むべき対象ですらな

いのである。まあ、その方が問題が大きいという見方もあるであろうが。“魔障を降伏”というのはちょ

っと近い気もするが「妻を降伏してください」とも言いにくい。結局、寺もいくら金儲けとはいえ世評の

良くない頼みは聞いてもらえないであろうからだ。それでよくよく考えて“折伏(しゃくぶく)”はどう

だ、と思案を巡らす。日蓮だ。でも学会のようでちょっといやだなあ、とか考えてしまう。ご祈祷ひとつ

頼むのもなかなか難しいものである。しかし今、書いていて思いついたが“紛争解決”とか“紛争勝利”

であればどうであろう。微妙なところかも知れないが一度他の寺で試してみよう。結局、その日は前回同

様に“家庭円満”の祈祷文言であった。僧侶も初回のときとは変わっていた。初回の僧侶は寺務員の話し

では貫首につぐNO.2の地位にあるとのことだったが、今回の僧侶は年齢も弱冠若めで貫禄不足という

か、ちょっと験力も落ちるのではないかという印象を受けた。