龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

短編『不動明王』4


2度目のご祈祷が終わり前回同様、お茶をいただいていた時のことである。背後の方から「おかげさま

で」という晴れやかな声が聞えた。見ると初老の女性である。事務員の男にお礼を言っている。お茶を飲

みながら話の内容をそれとはなしに聞く。前日にその女性の自宅から3軒隣の家で火事があり、彼女の家

はあやうく延焼を免れたとのことであった。それでお礼参りに来ていたようだ。しかし、火元の家では5

歳の男の子が一人で焼け死んでいたとのことである。私は見ていなかったのだがその日の朝刊に記事が出

ていたらしい。私は何ともいえない気分になった。3軒先の家で火事があって自分の家に被害がなけれ

ば、“ああ、助かった。良かった。”と胸をなでおろす気持ちにはなる。しかし、そんな近所で5歳の男

の子が火や煙にまかれて苦しみながら死んでいったことを思うと私なら到底、「おかげさまで」という気

持ちにはなれないだろう。何とか助けてあげることは出来なかったのかという思いで一杯になる。寺に参

るような気持ちのある人間でも結局は自分のことしか考えられないのか、これが今の時代そのものなのだ

と思うと悲しくなった。とはいってもおまえだって女房をやっつけようという心根でご祈祷に来ているで

はないか。どっちもどっちだ、人のことを言えた義理ではないぞ、と声なき声が聞えてくれば“確かにそ

の通りでございます。”と認めるほかなく返す言葉もない。人間、誰もが基本的に“自分本位”なのであ

る。私も馬鹿女もお礼参りにきていた女性も皆同じだ。ただ“自分本位”の“自分”をどのように定義す

るかによって多少考え方が違ってくるだけなのだ。要するに“自分”のなかに“他者”が含まれているか

どうかだ。釈迦やキリストと我々は“自分”のレベルが違うのである。このような考え方は“柄谷行人

に言わせれば神秘主義思想に陥りやすい“独我論”ということになるのであろうか。“自分”に含まれる

“他者”というものを、そこに“他者は存在していない”と批判する。確かにそういう一面はあると思わ

れる。しかし私が思うに自分と言うものは単独者の自分であると同時に他者を含んだ自分でもあるのだ。

関係性のなかにおける絶対的な自分と全体に通じる自分というものは単に視点の違いであって思想の対立

軸として捉えるべきではないと思う。結局、集団のなかにあってはどちらの視点で世界を見ようとも人間

の心が利用されることに変わりないのだから。だから最も大切なことは世界を見る視点と言うものが抑圧

や誘導によるものではなく、絶えず選択可能であり時と状況に応じてあっちに行ったり、こっちに来たり

出来るということなのだと思うのだ。そういう柔軟性が集団にあっても個人にあってもなければならな

い。しかし政治的な二極の対立構造に分化されてしまうと、物質の分子構造と同じでその状態で安定して

しまうのではないのか。いつまでも右と左に分かれて綱引きをしているレベルから早く卒業しなければい

けないと私は考える。

また話しが逸れてしまった。私の話しは個人のことを語っていても、すぐに個人を離れてどんどん話しが

大きくなっていってしまう。どうしてだろうか。これもある種の逃避なのか。まあ、いい。私はこれから

もこの世の論理である“法律”とあの世の論理である“仏法”の二つを両輪にして妻と闘っていかなけれ

ばならない。しかし妻はもっと手強い後ろ盾を有している。それは“大衆”だ。妻の背後には、何十万、

何百万の大衆が守護霊のようになって彼女を守っている。本当はそんなものと闘ったところで土台勝てる

わけがないのだ。ああ、恐ろしい。といっても私だって“大衆”の一人なのだから本当は偉そうに大衆批

判できる身分ではない。しかし、日常生活のなかで私のように“考える”生き物を“異端”として排除し

ようとし、高貴ならんとする人間の脚を引っ張り嘲笑おうと待ち受ける心性の集合体というものは確かに

存在する。結局、私は妻と闘っているのではなくその背後にいるものの集合体と闘っているのだ。こんな

ことを書いていると次第に死刑執行を控えて独房で手記を書き続ける死刑囚のような気分になってくる。

「私が悪いのではない、こういう私をつくった社会が悪いのだ。」そういう魂の叫びを綴りながらも結局

誰にも理解されることなく死んでゆくのだ。暗い話しは止めにしよう。また、にんにく注射が必要になっ

てくるから。私には息子に伝えるべきものがある。私は弱くて醜い人間かもしれない。それでも息子が人

生を生きて上で力となり糧となり得る、伝えるべきものを私は持っている。たとえ誰が認めようとしなく

ともだ。だから私は息子と離れて生きていくことは出来ないし、そうすべきではないのだ。本当は自分の

子供だけではなく全ての子供たちが生きていくための何らかの力になってあげたいと思うのだが、その方

法が見つからないのだ。

弁護士は私が妻と離婚することになっても親権は取れないという。収入もなく働く気もない女がどうやっ

て子供を育てていくことが出来るのだと言っても、それでも無理だという。そのあたりの見解は私と弁護

士で別れるところではある。しかしもし私に親権が取れると仮定しても現実問題として男が働きながら子

供を育てるのは大変であるし、やはり幼少時には母親の愛情が必要である。しかし子供が20歳になれば

親権は消滅するし、20歳まで待たなくとも男の子のことであるから中学生ぐらいになれば徐々に母親か

ら離れてゆくであろう。私の息子は6歳であるから中学生といえばあと6~7年である。6~7年といえ

ば長いようで終わってみればおそらくあっという間であると思われる。だからその期間を今の別居での生

活スタイルで持ちこたえ、子供との接触だけは何とか確保しながら絆をより一層深めていくことに全力を

尽くさなければならない。そもそも家計の一切を私が負担していながら正当な理由もなく子供との接触

制限されること自体がおかしな話しなのである。それについては相手側の弁護士も認めていることではあ

るが。そしてある時期がくれば、あの馬鹿女とはおさらばだ。別居していれば財産分与なんて馬鹿げた請

求をされる恐れもない。そう、それが一番賢いやり方だ。そもそも別居は妻が望んでいたことであり夫婦

としての相互扶助義務を果たそうという気など毛頭なく私に全ての金を負担させることしか考えてこなか

ったのであるから。今頃になって相手側弁護士があわてて私に同居を求めているがもう遅い。調子のいい

ことをぬかすな。いずれ離婚した日には、今でもそうであるがあの女には引き取り手はいないであろう。

その後は、一人で淋しく生きていってくれ。私はもう知らないよ。好きにしてくれ。お好きなように、

だ。


我々が夜見る夢が不確かなのと同じぐらいに日常の現実が不確かであいまいに思えるような、より一層高

次の現実と知性があるならば我々の日常もまた夢の中にあり何者かに夢見られているということは出来な

いであろうか。死もまたひとつの目覚めであるのかも知れない。夢の中で夢であることを自覚したときに

夢の性質は変わりより一層リアルに感じられるものがある。“明晰夢”のように。全ての人がいい夢のな

かにありますように。私とあなたとそしてもちろん妻もだ。