龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

麻原彰晃の死刑確定について


オウム真理教麻原彰晃の死刑が確定した時にNHKニュースを見ていると、ある作家が出演していて高

学歴の信者たちがどうしてあのような凶悪な犯罪行為に走ることになったのか、社会全体で考え続けてい

かなければならないと問題提起の発言をしていた。これは事件発生当時から問われ続けてきたことである

が、事件後10年以上経過した今日となってもそれらしき回答を得られていない。私見を述べれば、オウ

ム真理教の問題は日本社会の本質と深く繋がっているように思われる。一般社会と隔絶、分離したところ

の1カルト宗教の問題として考えているといつまでたっても首を傾げ続けなければならないし、今後とも

同じような狂信的な集団が現れる可能性と向き合う心構えも必要であると思われる。オウムの問題は、こ

ちら側の日常を裏返したものではなかったのか。日本社会の日常というものがいかに貧弱な思考と一様な

感性によって成り立っていたものにすぎなかったのかということである。それに馴染めない若者は常に一

定数存在するのである。また平均以上に思考力や感受性が発達していて現実適応ができない人間は“うす

っぺらな”な日常に欺瞞を感じ居場所のなさや疎外感を抱きやすいものである。それが引きこもりになる

か、自殺やリストカットに向うか、カルトに入信するかはほんのちょっとした違いにすぎないように思わ

れる。要するに日常世界から流れ出てゆかないようにするためのこちら側の感性や知性の堤防が低すぎる

のである。わかりやすく言えば誰も何も考えていないし感じてもいないということである。また日常とい

うものは異物を排除するのではなく異物をどんどん取り込んでいくほうが社会は活性化すると思うのだ

が、日本社会の同質性というのはそういうことが一番苦手というか本能的な恐怖すら感じてしまうのでは

ないだろうか。しかし本当は異物をどんどん取り込んで消化することによってしかダイナミズム(活力、

迫力)は生まれてこないと思う。カルトというものはその時代社会の影であり、ある意味において必然

だ。しかし影は所詮、影にしか過ぎないのである。オウムに向った若者たちがたとえ高学歴で優秀な頭脳

の持ち主であったとしても、どこに行ったところで“特別な場所”というものはありえないということを

見抜くだけの知性が欠けていたのだと思う。今、ここにあるものがすべてなのである。特別な誰か、特別

な何か、特別な場所というものは全て幻想だ。特別を求めても結局どこにも行けない。特別という一言で

洗脳されてしまうのは、やはり人格的な未熟さがあるからだと思われる。もう一つは一旦、ドロップアウ

トしてしまうと極端に走ってしまうという傾向である。これも日常世界の堤防の低さに関係しているよう

に思われるがカルトの問題としてよりも私は何か“日本的”なものを感じてしまう。こういうことは言う

べきではないのかも知れないが、戦後の日本人の無意識というものは危険視されて管理され続けてきたの

ではないのか。それがカルト集団の犯罪という形で暴発したようにも私には見えた。日常というものをも

っと多様性に満ち、深みが感じられるものに変えていかなければならない。そのためには精神性を重視

し、評価する教育プログラムも必要だと思う。当然、イデオロギーを離れてだ。結局、日本人を無意識下

で縛ってきたのは特定のイデオロギーではなかったのか。私は、文部省指導下の公立学校のありかたも考

え直すべきだと思う。地方に移管するとか徐々に民営化していくという選択肢もあり得るのではないの

か。親の経済負担が増えると言われるかもしれないが、今でも塾代が家計を圧迫している家庭が多い実情

があるし、そもそも現在の公立小中学校や教員そのものが腐っているではないか。テレビで校長先生が会

見する顔を見ていても教育者に見える顔は見当たらないような気がする。教育界にこそ健全な競争原理が

必要だと思う。それと前にも書いたことであるが地方をもっと活性化させないといけない。人口が東京に

集中しすぎている弊害がある。法人税率に差をもうけて地方に大企業を誘致し、それにあわせて労働人口

や所帯数も移動させてゆくべきだ。“日常”というものを耕していくためには日常風景を変えることが第

一歩だと思う。“心”は環境によってつくられるのだから。地方から新しい日本を作っていくべきだ。