龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 14


ケーブルの宝山寺駅から少し行ったところに喫茶店がある。ある日、私はそこできつねうどんを食べていた。客は私一人であった。店のおばさんが私に話しかけてきた。私はこれから宝山寺の講習会に参加することになっている、坊さんたちと一緒に読経するのだと言った。すると、そのおばさんは大変な興味を示し「へー、そんなもんがあるんかいな。」と言い、店の奥に引っ込んで「ちょっと、ちょっと」と別のおばさんを連れてきた。二人がどういう関係なのかはわからない。もしかすれば姉妹なのかもしれない。新
しく登場したおばさんは、私同様、聖天さんへの関心が高いようで講習会について私にいろいろと聞いてきた。それで一通り私が答え終わった後、おばさんはおもむろに聖天さんの話しを語り始めた。その話しが面白かったので紹介することにしよう。おばさんが言うには、宝山寺へ参りに来る人の数はとても多いけれど聖天さんの凄さをわかって来ている人はほとんどいないということだ。たまに学者や学生が研究にやってくることもあるらしい。ある日のこと、その喫茶店にある女性がやってきた。どこか近所からふらりとやって来たようないでたちをしていた。おばさんはその女性客にどこから来たんですか、と聞いた。すると九州からです、という答えが返ってきてびっくりしたという。その女性客は当日、奈良までやってくる予定などまったくなかった。近所に買い物か何かに出掛けていて、急に聖天さんに呼ばれたのだという。それでそのままの格好で急遽、奈良まで新幹線を乗り継いでやってきたのだそうだ。おばさんは詳しくは聞かなかったようだが、おそらくその女性はこれまでに聖天さんからひとかたならぬ御利益をいただいていたに違いないと思う、と言っていた。私は「ふーん」という感じで黙って聞いていたが、内心世の中には凄い人間もいるものだとちょっと驚いた。立場を逆にして考えると、私がたとえば暑いからと近所のコンビニに缶ビールを買いに行っている途中、聖天さんに呼ばれたような気がしてそのまま新大阪駅に向かい、新幹線に乗って九州のどこかの寺に飛んでいくということである。どれほどの御利益をいただいているのか知らないが、私にはあり得ないし、かなわない。しかし、そんなえげつないとも言えるような力を人間世界に現し得る歓喜天という神は、一体何ごとなんだろうかと改めて興味をそそられた。おばさんは、聖天さんは人間よりもちょっとだけ上位の存在だといった。だから敬意と親しみを持って、接する
べき神様なのだそうだ。その辺りの見方は、なかなか微妙で難しい。なぜなら聖天さんにまつわる俗信というものは、たとえば七代分の福を一身に集めてしまうとか、部外者の僧侶が聖天さんが祀られている寺の近くを通る時には目を伏せて行過ぎるといったようなとにかく畏怖すべき対象であるというものがほとんどであるからだ。しかし聖天さんが人間よりもちょっとだけ上位の存在だという見方は、私が先に述べた宝山寺が聖と俗の中間地点に位置しているという考えの正しさが裏付けられているような気もする。よって宝山寺は元々、歓喜天信仰に適した地理的条件にあったと私はここに独断で述べる。但し、聖天さんの名誉のために断っておくが、言うまでもないことだが聖天さんの能力が人間よりもちょっとだけ上位だということではない。私の理解では、全ての天部の神々は仏縁のある人間を仏教に導いて救うために、そして仏敵から守護するために人間に理解されやすいような姿、性質に化身してあえて人間の近くまで降り立ってきている存在なのである。大日如来のように完全無欠の法身仏は、あまりに人間からかけ離れすぎていて理解するための取っ掛かりがないゆえに神は自らを分化したのである。天部の神々が人間に近い地点に存在し、一心に祈れば願いを聞き届けてくださるからという理由で人間よりもちょっとだけ偉い存在なのだと勘違いし、聖天さんの肩をぽんぽんと叩いて「ようっ」というような態度で接していると偉い目に遇うような気がする。しかし私個人は、一般的な歓喜天信者が畏怖するほど聖天さんを恐れてはいない。たとえば歓喜天の経典である『使呪法経』は、恐れ多くて読誦するものではないもののようなのであるが、私は宝山寺で買った歓喜天拝礼作法の中の大聖歓喜天使呪法経偈文を普段、暗誦している。私には基本的に純粋馬鹿というか、怖いもの知らずのところがあるのだ。しかし、そんな私でさえも聖天さんはやはりちょっと怖いと感じるところがある。歓喜天独特の修法に浴油供という御祈祷がある。温めたごま油を双身聖天像に柄杓を使って頭からそそぐのである。密教奥義の修法ともいうべきもので、もちろん一般の人間が見ることはできない。たとえば宝山寺は、浴油供を毎日夜中の二時から執り行なっている。終了するのは明け方の六時ぐらいだそうだ。ならば宝山寺の住職は一体、いつお休みになられているのであろうか。私は、この御祈祷を宝山寺では五回ほど、山崎聖天こと観音寺で一度申し込んだことがある。因みに宝山寺では寺務所にて氏名、住所、簡単な願い事を言えば、寺務員が記帳してくれ一日につき千円で受け付けてもらえる。よって五千円渡せば五日連続で御祈祷してもらえることになる。観音寺は確か、1回につき三千円であったように記憶している。まあそんな細かな事はどうでもいいのであるが、私は聖天さんの浴油供御祈祷を受けたことでちょっとした不思議な体験(気付き)を得た。別にここに書いても何ら問題はないと思われるのであるが、聖天さんに余計なことを言うなと叱られそうであり、またまったく見当違いの可能性も高いので詳しくは書かない。一言で簡単に説明すれば、聖天さんのエネルギーは“雷”に関係しているのではないかと私には感じられるのである。また雷は異次元世界からこの世への何
らかのメッセージであるようにも思われる。この件については恐ろしいのでこれ以上は書かない。