龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 15


最近、私自身の身に起こったことで言えば、仕事上において営業活動をしているわけでもないのにびっく

りするような大きな注文が舞い込んできた。それも一回限りのものではなく、今後とも継続される可能性

があるものである。果たしてこれは聖天さんの御利益なんであろうか。そうだと考えることは簡単である

し、実際そのような気がしないでもない。しかし、意外に思われるかもしれないが結局のところは私はそ

うではないと結論づけるのである。これから書くことは、かなり理屈っぽい内容で一般には受け入れられ

難いものになるであろうことを先に断っておく。しかし、ここからが私が最も強調したい本題であって先

に書いてきたことは全て前置きなのだ。聖天さんの御利益ではないと私が考える理由をわかり易いところ

から述べる。先ず、私が聖天さんに祈るときに商売繁盛を祈らないでもないが、ほとんどは別居している

息子との関係が安定することを祈っているからだ。但しこの点についてもこれまでのところは息子との面

会が安定しているので聖天さんの御加護があると見るべきかも知れない。商売については大きな注文をい

ただいたことは確かに有難いことで感謝しているが、聖天さんの御利益であるなら贅沢を言って申し訳な

いが、もっと儲かっていても良さそうなものだという気がしないでもない。要するに何が言いたいねん、

と言われそうだが結局私はよくわからないものは全て否定するのである。私の信仰は否定するための信仰

なのだ。疑いをもってはいけない、ただひたすら信じなさいと観音経に書かれていても私は疑う。それは

否定し疑うという心の働きが、信ずるということの意味と強度を裏側から支えているのだということを私

は本能的にわかっているからなのだと思う。自分にとって都合の良い、あるいは心地よい考えを採択した

時に何かしら裏切っているものがあるように私には感じられる。その裏切っているものとは真実以上の真

実であり、神仏以上に尊いものだと考える。そういう意味では私には本当の信仰心は無いのである。ただ

どれだけ否定しようと思っても否定しきれないものが残る。それは私が何かしら大きな力によって生かさ

れているのだということと、もう一つは私は仏教的なものに御縁をいただいているのだということであ

る。たとえば歓喜天にしても不動明王にしても、物珍しさや興味本位、お願い事だけでいろいろな寺を巡

り歩くと言うことはおそらく有り得ないことなのだと思われる。その二点さえしっかり心に留め、感謝の

気持ちを忘れないようにすれば、信じることと信じないこと、肯定と否定は私にとっては不動明王が両手

に持つ剣と羂索であり、世界に屹然として立ち向かい、生命の自由を人生に象徴せしめる手段となる。否

定したところにさらなる肯定が現れる。禅の言葉で「仏に逢っては仏を殺し、」とあるが道を歩む者は絶

えず否と叫ばなければならない。神に対してさえもだ。そしてそれは私にとっては肯定と否定の二つの翼

で羽ばたき飛ぶことを意味する、上昇するための止揚アウフヘーベン)なのだ。片翼でも翼には違いな

いが、片翼では飛べない。そもそも肯定と否定、オンとオフの働きは人間存在の根源に根差しているので

はないのか。我々は生きている限り、肉体として絶対的に存在しているように考えているが電子レベルで

見ると存在と非存在の点滅を繰り返している。仏教的に言えば「色即是空、空即是色」ということになる

のであろうか。それで話しはここで小説『存在の耐えられない軽さ』の装画に戻る。私にとって書くこと

が実存的な生に結びついているのであれば絶えず原点に立ち戻らなければならない。それが私にとっての

永劫回帰であるからだ。私がある日、ふとこの小説を読みたくなったのは双身歓喜天を思わせる装画に呼

ばれたのであろうか。九州から奈良の宝山寺まで飛んできた女性のように。そして私は聖天さんに呼ばれ

たがために、今このエッセイを書いているのであろうか。わからない。わからないからそうではないと言

おう。私に見えているのは形而上的な関係性だ。我々は生きている限り様々なものと関係性を結ぶことが

出来る。ただ、これと関係しようと決めたからと言ってすぐに関係性ができるわけではない。人間的、物

理的な手間隙をかけなければならない。たとえば私は銀冠玉というサボテンの陶磁器のような肌の美しさ

を愛する。サボテンを時間をかけてゆっくりと育てるように神々とも関係性を結びたい。女と男が抱擁し

た装画のように人間世界と神々は、その時々で前景になって浮かび上がってきたり、後景となって退いて

ゆく。昼の後に夜が来るように。それが私にとってのゲシュタルトだ。私は神々とサボテンを愛し、そし

て息子を愛する。それで十分じゃないか。それ以外に、一体何を愛せよというのだ。

私は祈る、息子との関係がとこしえに続かんことを。



「俗悪(キッチュ)なものの源は存在との絶対的同意である。では何が存在の基礎であるのか? 神? 

人間? 戦い? 愛? 男? 女?」

『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ 千野栄一訳 集英社文庫

装画/シュウゾウ・アヅチ・ガリバー

これは面白い見方である。俗悪なものの源は存在そのものではなくて、存在との絶対的同意だとクンデラ

は言う。要するに存在に対する存在の認識に疑いがないと俗悪が発生するということだ。では何が存在の

基礎であるのか?確かにそう問わずにはおられない。