龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

世知辛さの受難

また小学校の登校列に車が突っ込む事故が発生した。一人の子供が頭蓋骨骨折の重傷だなんて酷い話しである。こういう事故を何度繰り返せばよいのか。突拍子もないことを言うようだが、デフレと関係があるような気がしてならない。どういうことかと言えば、デフレ経済下における人間心理の本質として「世知辛さ」というものがあると思われる。10月29日の記事でも述べさせていただいた通り、本来であれば通学路の安全性の確認については、ガードレール設置の可否や、登下校時間帯の一般車両の進入禁止を含めて、学校や地元の警察署が緊密に連絡を取り合って留意されなければならないはずである。ところが今日においてはそういう最も大切なことが、なおざりにされている傾向が大きいように見える。それが何故なのかということであるが、私も自分の息子のことで小中学校の懇談会などへは何回か出席しているが、今の学校の先生方は進路相談とか学習指導などについては、かなり熱心に取り組まれているように感じられるのであるが、職務におけるテリトリーの線引きがはっきりしているというのか、学校外のことについては自分の職務とは直接には関係のないことで責任範囲外のことだから、全く無関心とは言えないかも知れないが、あまり積極的に関わろうとはしていないのではないかと見受けられるのである。複雑な家庭内の事情であるとか、いじめなどによる子供の心の内面についての関与についても同様である。厄介なことや余計な仕事は引き受けたくないし、そういうことに首を突っ込んでも、教師としての評価が上がる訳でもなければ特別手当がつくものでもない。公務員とはそういうものだと言われれば、それまでなのだが。保護者にしても下手なことを言ったり、教職員の負担を増やすようなことを要求すれば、モンスターペアレンツの烙印を押されかねないという不安があって、思っていることを口に出しにくい雰囲気がある。これを世知辛いと言わずして何と表現すればよいのか、ということである。誰もが自分の手の内の権利意識であるとかテリトリーの範囲内に汲々と棲息するように生きていて、そこからはみ出す心の拡がりを持ち得ないのである。世の中全体が世知辛さに覆われていると、どうしても最終的には自分さえ良ければよいという処世術に囚われてしまうものである。警察なども、教師と違って警察の仕事ぶりについては見え難い所はあるが、類似した問題を抱えているように思われる。デフレ的という意味は、極論ではあるが1円たりとも損したくはないという意識であり、それは自分のテリトリーから1ミリでもはみ出すことについては関与しないという線引き姿勢と同義なのではないのか。現代においては子供たちはこのような狭隘化された社会意識の狭間で様々な場面において受難に遭遇しているような気がしてならない。登下校における安全が確保されていないこともその中の一つではないのか。本来は政治が問題意識を持ってこのような目に見えにくい社会弊害を除去していくバランス感覚と良心を持たなければならないはずである。しかし我が国における政治は、国民の税金は効果のないことにまで湯水の如くばら撒くのに、自らの政治資金の管理においては元東京都知事のようにごく僅かでも私的に流用したり、取り込もうとするせこくもデフレ的な人間の集まりであって情けない限りである。これでは如何ともし難い。どうしたものなのだろうか。全ての政治家と官僚たちに問いかけたい。
お金が好きですか。
まあ、私も好きだけれど、世知辛いほどに愛してはいない。形のない、目には見えない精神のあり様の方が金よりも価値があると考えている。