龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

東寺にて想う2

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空海ゆかりの東寺を訪れたことで司馬遼太郎の名著『空海の風景』を再読した。空海を肉眼で見たいとい

う筆者の思いから書かれたこの小説は、1200年の時を超えて空海の息遣いが感じられるほどの力があ

る作品である。特に遣唐使船に乗船して唐に渡っていく空海の姿が圧巻だ。当時の日本の造船技術・航海

術は信じられないくらい稚拙なものであったらしい。船の構造は竜骨が用いられておらず船底がたらいの

ようにひらたくなっていた。底のとがった中国船やアラビア船のように波を切って進んでゆくということ

が出来ず、単に波の上に浸かっているという感じであったようだ。帆はあるが、順風以外には風をとらえ

ることができず、逆風になると帆柱をたおして船端から多くの櫓を出し、人力で漕いでゆかねばならなか

った。また、唐から日本に風が吹いてくる真夏の逆風となる季節をわざわざ選んでそれまでに何度も遭難

させているにもかかわらず空海を乗せた第16次遣唐使船の一団もまた難波ノ津(大阪市上町台)を延暦

23年(804年)の夏に出帆させることになる。遣唐使船は難波ノ津から出るのが慣例になっていた。

難波ノ津の船大工たちは船が出てゆくまでのあいだに船体にとりついて手入れをしていたようだが、主と

して船材のつなぎ目に、水草を押し込んで水漏れを防ぐ作業であったとのことだ。船の隙間をアスファル

トで固めたり、木と木のつなぎ目に鉄釘を打ち込む技術さえなかったらしい。まさに死出の旅路であった

のである。実際に遣唐大使に任命されても逃げたり、拒んだりする者もいたようだ。そのような危険な航

海に空海は千載一遇の機会を引き寄せるようにして果敢に乗り込んでゆく。目的は『大日経』について研

鑽し、密教の体系化を完成させるためであった。難波ノ津を出た4隻の船団は瀬戸内海を西へと進んでい

く。途中、各地で船泊(ふなどまり)を重ねながら関門海峡を過ぎ玄界灘に入り、博多湾奥の那ノ津とい

う地に上陸する。その後那ノ津から東南に位置する大宰府で滞留をした後、那ノ津を出航し五島列島に向

かう。五島列島最南端に福江島がある。福江島北方の久賀島、田ノ浦という地で水と食料を積み、船体の

修理をしつつ、風を待つ。風を待つと言っても先ほども言ったように遣唐使船は唐から日本へ風が吹いて

いる真夏の逆風の時期を選んで行われているのである。当時の日本の遠洋航海術は幼稚と言う以上に無知

であったということだ。それでもまれに順風らしきものが吹くことがあり船団は7月6日に田ノ浦を発す

る。しかし順風は一日しかもたず翌7日にはもう逆風が船を翻弄しはじめたようだ。結局この時の四隻の

船の内、空海が乗っていた第一船と後に天台宗を開宗することになる最澄が乗っていた第二船以外の二隻

の船は唐に着く前に難破してしまうこととなる。空海の乗っていた第一船は、1ヶ月ほど漂流した後、予

定地の明州寧波(ニンポー)から遠く南にはずれた福州長渓県赤岸鎮(せきがんちん)にたどり着く。最

澄の乗った第二船は、50日あまり漂流したのち、運良く予定地の明州寧波(ニンポー)を見つけ無事到

着する。空海が乗っていた第一船には大使の藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)や橘逸勢(たちばなの

はやなり)ら23名が乗船していた。漂流中の船倉は次第に恐慌状態をきたし、病人も続出し地獄絵図を

呈し始めていたであろう。船中の僧達が二六時中経を読み仏天に祈り続けていたであろう中で、空海はど

のようにして時を過ごしたのであろうか、そしてどのように思ったであろうかということを司馬遼太郎

以下の通り想像し、語っている。空海は宇宙の意志がじかに、そして垂直に自分に突きささっているとい

うことを、さりげない日常のなかにも感ずることができたであろう。ましてこの危難のなかで感じなかっ

たはずはない。かれは船体が叫喚するがごとくに軋み、ときに真二つに割れそうになる瞬間も、平然とそ

の一念のなかにいたかと思われる。「…仏天は自分に密教を得しめようとしている。風も浪も船もことご

とく仏天の摂理のなかにあり、この風浪もこの航海も、そして船倉にたおれ伏している病人たちも、その

摂理のまにまに在り、そのほかのものではない。摂理の深奥たるや、密なるものである。その密なるもの

を教えるものは密教のほかなく、その密教長安にまできている。自分は倭国からそれを得にゆく。わが

旅たるや、わが存在がすでに仏天の感応するところである以上、自分をここで水没させることはないであ

ろう。この船は、そういう自分を乗せているがために、たとえ破船になりはてようとも唐土の岸に着く。

このこと、まぎれもない。…」凄まじい一文である。私はこの一文を今後何度も繰り返し読むことになる

であろう。予定地寧波(ニンポー)にたどり着いた最澄はさっそく天台山国清寺(こくせいじ)に向か

い、天台宗修善寺(しゅぜんじ)座主と会って、天台教学の奥義を学ぶ。そして多くの貴重な経典をたず

さえて8ヵ月後、長安から戻っていた大使の藤原葛野麻呂らが待つ船に乗船し、無事帰朝する。一方、空

海ら一行は赤岸鎮の役所から長渓県の役所にゆくことをすすめられ、そこで県令である胡延泝という人物

と対面することが出来るが、「県ではとても処置できない。州の治所である福州へ行ってくれ」と言われ

る。それで再び空海たちは海路、福州へ向い10月3日にようやく福州の町を臨む河口に達する。赤岸鎮

に漂着したのが8月10日のことであったので、ここまでくるまでに県との交渉や沿岸航海に2ヶ月近く

を費やしているのである。日本から積んできた食糧は尽き、疲労は限界に達していたであろう。しかし一

行は下船を許されなかった。「自分たちは、日本国の国使である。」と言っても3ヶ月に及んだ漂泊で汚

れた衣服や萎えきった相貌からまともな連中であるとは思われなかった。密輸業者に違いないと判断され

たのだ。ほどなく州吏が官員をひきいて河畔にやってきて全員が船からひきずりおろされた。一行は罪人

の扱いを受け水のしみこんだ汀のうえで滞留させられることを余儀なくされたのである。大使の藤原葛野

麻呂はしきりに哀訴したはずであるが州吏は「国書か印符なりを見せよ」と要求する。日本の遣唐使船は

国書を携行しないのが通例となっていたらしい。印符については最澄が乗っていた第二船が保管してい

た。よって第一船には国使の船であると言う証拠が何もないのである。唐では習慣として文章によって相

手がいかなる人物であるかを量った。藤原葛野麻呂は自分の署名入りの文書を地方長官である閻済美(え

んせいび)に文章を変えて何度か見せたが、その都度黙殺された。困り果てた大使藤原葛野麻呂は、当時

無名の空海に嘆願書の代筆を依頼することになる。大使藤原葛野麻呂空海が名文家であることを橘逸勢

から聞いたのかも知れない。ここで空海の文才は発揮される。『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょ

うりょうしゅう)』にその時の名文が収められている。