龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

渡来人の真実

大阪には難読の地名がいくつかあって、大阪以外の人には読めないと思われるが、「十三」とか「放出」、「杭全」などがある。十三はジュウソウ、放出はハナテンで、杭全は、漢字が得意な人はもしかすれば初めて見ても読めるかも知れないが、杭(クイ)と全(マッタシ)が合わさってクマタである。私は以前から杭全という地名が何となく気になっていた。語源は大阪市東住吉区の今川という川の氾濫を防ぐために「杭」を打ち、「全て」打ち終わったことから、杭全になったということであるが、私にはどうもその説は怪しく感じられる。杭が打たれる前には何と呼ばれていたのかという素朴な疑問が生ずる。杭全のすぐ近くには、百済というJR貨物駅があって、私はその百済の駅名もその前を車で通る度に、何でまた百済などという名称が使われているのかと不思議に感じていた。クマタとクダラで音韻が良く似ているのでこの二つは距離的に近接していることからも同一である可能性があると何となく考えていた。それで最近そう思って調べて見ると、やはりそういう説もあるのである。恐らくはそちらの説の方が正しいのであろうが、クマタはクダラが訛ったもので、百済はもちろん朝鮮半島における古代の百済王国のことである。つまり杭全や百済は元々は、朝鮮半島から日本にやってきて住みついた渡来人によって形成された集落であったのではないかということだ。
私は渡来人の歴史的事実を否定するものではない。ただそれがどの程度の規模で日本に流入していたのかとなると、日本から命懸けで大陸へ渡った遣隋使、遣唐使の記録や或いは唐から日本へ度重なる苦難の末に来日した鑑真について伝えられている史実などから考えると、当時の造船技術や航海術からすれば、たとえ数世紀に亘る期間であっても何千人とか何万人という数には到底、及ばないものであろうと考えられる。せいぜい数百人という程度の数であったのだろうと私は推察する。しかし2~3世紀で数百人程度であろうと渡来人が確かに日本にやってきて定住し、集落を作りその地で子孫を残していった事は事実であったのであろう。杭全もその一つである可能性は高い。(地元の人間が嫌がるせいか、あまり大っぴらには主張されていないが。)そしてその事実は現在においても大阪に在日韓国人朝鮮人が多い事とも深く関係している。渡来人の多くが大阪に住みついた理由が私にはよくわかるような気がする。聖徳太子のいた飛鳥時代にしても、その後に続く奈良時代平安時代にあっても大阪は都に近い先進性と都の中心から隔たっている辺境性がほどよく合わさった地域であり、渡来人が住むに都合が良かったのであろうと考えられる。さすがに天皇の御所がある都に侵入することは夷狹として迫害されたり、差別される可能性が高いために憚られたのであろうが、大阪の地ではそういうことがなかったのであろう。その上に大阪は奈良や京都と違って、海が近いから海産物にも恵まれ、気候も温暖なので稲作にも適していて、渡来人が住み着くには快適な土地であったのであろうと思われる。そしてそれは渡来人がなぜ日本にやってきたのかいう理由とも関連することであるが、平安時代空海最澄が唐の文物を取り入れるために渡航したような高度な政治性や建設的な意味合いはほとんどなかったものと私は考える。恐らくは百済の人間であれば新羅や唐に攻め滅ばされる時に、日本に逃げてきた人間がほとんどであったのであろうし、新羅高句麗にしても何らかの政変がらみで粛清される危険性に直面して、命かながら日本へ亡命してきた人間が相当数存在したのであろう。日本と言う国に大陸の文化や仏教という宗教を伝えようなどという殊勝な目的で来日したのではなく、ほとんどが追われるように逃げてきて日本の方がはるかに安全で住み心地も良かったがために、そのままその地に住み着いてきたものである。私は渡来人のことを悪しざまにいうつもりはないが、どう考えてもそれが歴史的な事実であったとしか考えられない。そして何よりも重要なことは日本と言う国は古代からそのように異国の人々を特に排斥したり、迫害したりすることもなく、温かくかどうかは分からないが寛大に受け入れ、同化させてきているのである。ところが現在の歴史認識ではそのような古代からの日本の美点を自ら打ち消して、渡来人とは当時の先進の文化や技術を日本にもたらして日本の政治、文化に大きく寄与した非常に有難い存在であったなどと馬鹿馬鹿しいようなおべっかが定説となっている。たとえば仏教にしても確かにルート的には朝鮮半島を通じて日本に入ってきたと言えるであろうが、日本では高度に洗練され、成熟していったが、朝鮮ではさほど発展もせずに儒教に取って変わられてしまっているではないか。その儒教にしても単に親や先祖を敬うと言う程度のことで、私から見ればであるが儒教とか朱子学の教えは一つの民族全体の精神性を育む思想とすれば不完全なところが大きいと言えるのではなかろうか。稲作技術が渡来人によって日本に伝えられたということも眉唾ものであるし、渡来人が須恵器の製法を日本に伝えたなどと中学生向けの教科書にもさも有り難そうに書かれているが、単にろくろを使って作られた素焼きの土器ではないか。そんな物は、当時にあっても先進性とか革新的などという言葉で形容できるような代物であったとは思えないのであるが。なぜここまで日本は韓国に対して気を使い、歴史的に見れば韓国の方が文化レベルが高かったと無理をして見做さなければならないような風潮に覆われているのか理解に苦しむものである。歴史的事実なのではっきりと指摘したいが、朝鮮は古代から文化レベルがどうこうという以前に一つの国家としてのまとまりが持ち得てこなかったので、文化的にも技術的にも文明を高度に発展させて継承させていくような土壌ではなかったのである。それは日本のように四方を海に囲まれて外敵から地政学的に守られているような安定した環境ではなく、常に外敵の脅威に晒されて、併合されたり属国になったりの連続であったので仕方ないとも言えるのであるが。
難読地名ではないが、大阪には「猪飼野」(イカイノ)という地名があるが、これは読んで字のごとく、猪を飼う野原という意味である。猪とはイノシシではなく豚のことである。この地も渡来人がやってきて住み着き、当時は豚を飼っていたのを倭人が珍しそうに見て、そういう地名を付けたのであろうが、猪飼野ウィキペディアで調べると、渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから、この地域を猪飼野と呼ぶようになる、と記述されている。これも、どうなのかと私は思う。豚を飼う技術てなんやねん、と言いたくなるのである。単に豚と一緒に生活していただけであろうが。しかしこのような説明の仕方をしなければ渡来人とは単に異国の日本にやってきて、勝手に住み着いただけの略奪者のイメージになるので、現代では政治的な配慮の下に渡来人は様々な優れた技術、文化を日本にもたらしたということになされているのである。しかし事実は事実である。我々日本人は歴史的な事実を重んじなければならない。日本は朝鮮半島から逃亡してきた渡来人を国内に住まわせるだけの包容力を持っていたのだ。よって先の戦争中における「八紘一宇」というスローガンもあながち侵略行為を正当化するためのものだとは言えないものである。実際に古代からそういうことを実践してきているのだから。それに1910年に日本と韓国の間で結ばれた日韓併合条約は国際的に正当性のあるものであって、到底、侵略などと呼べる性質のものでは有り得ない。その証拠に1941年の太平洋戦争の開戦まで31年間もの間、欧米諸国が、日本の韓国統治に対して不法な侵略行為がなされていると異議を唱えたり、日韓併合条約の無効を訴えたことは一度もなかったではないか。それは当然のことであって日本は自国の多大なる予算と韓国がもち得ていない土木、建築技術を惜しげもなく投入してその期間に韓国という国家の近代化の基礎を築き上げたのであるから、世界がその行為に対して干渉したり、反対する訳がなかったのである。戦時中に朝鮮半島から日本に渡ってきた人々は、ほとんどが強制的に徴用されたのではなくて本国では仕事がないから自らの意志で日本に来ていたものである。それが事実である。今日にあっては韓国は、中国と連携して共に戦勝国としての立場で未だに従軍慰安婦程度のことで謝罪や保障を恥ずかしげもなく要求し続けているが、日本は韓国とは戦争をしていないのであるし、渡来人の受け入れから現代の様々な人的支援や技術提供によって韓国の土台を作り上げてきた日本の功績を考えれば、感謝されることはあっても批判される理由など本来なら皆無のはずなのである。もちろん今、日本で暮らしている在日の人々には何の責任もないことであるし、差別は許されないことであるが、日本が韓国に対して嫌悪感情を持つことはこれまでの歴史的な経緯や現在の韓国政府の日本に対する対応を考えれば当然のことなのである。日本人が今、なすべきことは作り上げられた嘘ではない正しい歴史認識をすると共に、感情的ではない理性的な対応を心掛けることではなかろうか。