龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

高野山、結縁灌頂に参加する。

イメージ 1


ゴールデンウィーク期間中の5月3日に高野山に行ってきた。胎蔵界結縁灌頂に参加するためである。空

海がその昔、唐の長安にて恵果和尚から授けられた灌頂なるものを私も是非体験してみたいと以前から思

っていた。去年参加するつもりだったが、寝坊したりだらだらしていて行きそびれてしまったのだ。それ

で今年は気合を入れて何とかさぼらずに済ませることは出来たのだが、えらい目にあった。結縁灌頂とい

うのは一般の人が仏縁を結ぶために行なわれる密教の儀式で、誰でも参加することが出来る。高野山、金

堂で行なわれる結縁灌頂の場合は入壇料として三千円のお供えを渡せば番号の書かれた整理券が渡されて

時間が指定される。私は12時頃に着いたのだが、番号は確か502番で3時からということであった。

3時間待ちである。予想以上の多さにちょっとびっくりした。まさか今、世間でこんなものが流行ってい

るんじゃないだろうなと思った。ゴールデンウィークだからかどうかわからないが当日の南海電車は高野

山に参りに来る人々でかなり混み合っていたのだ。正直に言うと私はその時点から多少げんなりし始めて

いた。みんなもっと他に行くところはないんかいな、という感じである。因みに密教の世界を図式化した

曼荼羅胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅の二つがある。胎蔵界は物質原理、金剛界は精神原理にて仏の世界

を表したものだそうだ。また胎蔵界は女性原理で金剛界は男性原理であると何かの本で読んだ記憶がある

が、詳しいことはよくわからない。尚、高野山では10月に金剛界結縁灌頂が行なわれる。

私は結縁灌頂というものを誰でも気軽に参加できる気安さから正式のものを簡略化したまねごとのように

軽く考えていた。しかしそうではなかった。結構、本気の儀式なのである。世界遺産を甘く見てはいけな

い。昼食を食べ、付近のお堂を巡り歩きながら時間を潰して指定された時間に金堂に戻ると僧侶の指示の

元、70人ぐらいの一団が金堂の廊下に並ばされ説明を受けた。これから堂内に入っていくことになりま

すが中は真っ暗で、込み合って非常に窮屈な状況になります。また一旦、中に入ると儀式が済むまでは外

に出ることは出来ません。1時間以上掛かると思われますのでトイレのある人はまだ少し時間があります

ので今のうちに行ってください、ということであった。参加している人には家族連れの小さな子供も、ち

らほらとだがいるのである。(何だ、何だ、結構大層やなあ)と考えながら私は手荷物預かり所に渡した

バッグの中に数珠を忘れてきたこともあって、あわててトイレに行き数珠を持ち帰ってきた。戻ってくる

と、ほとんどの人は既に堂内に入っている。入り口付近で僧侶が唱える“南無大師遍照金剛”の真言をし

ばし唱和した後、内部に入り最後尾の座につく。事前の説明どおり内部は垂れ幕によって外部の光が遮断

されている。しかし数本のろうそくがぼんやりと燈されているので漆黒の闇というわけではなかった。し

ばらくすると阿闍梨が登場し、皆で経文を唱えた後、法話を聞かされる。最後に大日如来の印の結び方の

説明があり、その後仕切られてある次の間に移ることになる。正直に言うと私はこの時点で、慣れない長

時間の正座と奇妙な圧迫感によりかなり嫌気がさしていた。そして廊下で手渡されていた、大日如来が印

刷された細長い白い紙で目隠しをされる。手には大日如来の印を結び、前に並んでいる人の背中を重ね合

わせた両手中指で触れる。そして“おん さんまや さとばん”という三昧耶戒真言を唱え続ける。私は

回廊で並んでいるときに、トイレに行って戻ってきたため最後尾ということもあって列が中々進んでいか

ない。私は暗所恐怖症ではないが何故かいやな感じになってきた。私の精神状態は息苦しさと共に不安感

からちょっとしたパニックへと進んでいった。南海電車や登りケーブル電車の人込みを見たときからいや

な予感はあったのである。目隠しされている紙をもぎ取りたい衝動に駆られた。ちょうどスキューバダイ

ビング中にパニックになって呼吸が早くなり、口からレギュレーターを離してしまう感覚に近いものだと

思われる。どうしても耐え難いのだ。しかしこの儀式には小さな子供も参加しているのだと思うと、何と

も言えず自分のこらえ性の無さに情けなくなってくる。後から思い返すと、小さな子供たちはみな僧侶に

よって列の前のほうに移動させられていたのだが、それにしてもである。列の前、後ろの違いはあっても

同じことをしているのだ。ここで、この目隠しをもぎ取ってしまえば私はこの先、生きていけないと思っ

た。そこで深呼吸を二、三度繰り返し自分が今置かれている状況を考えてみる。……なるほど、わかっ

た。自分勝手な解釈かも知れないが私は今、死を追体験しているのだ。光を閉ざされた空間の中でさらに

目隠しをされる。そして真言を唱えながら右に左へと誘導されてゆく。これは生の世界から死の世界に進

入してゆくイニシエーションなのだ。そうか、よし、それなら死んでやろう。死んでどこに行くかは御仏

に任せようではないか。そのように考えると不思議に心がだんだんと落ち着いてきた。それで冷静になっ

て考えてみると、先ほどまで感じていたパニックは儀式の中での拘束された状況によるものではなく、擬

似的な死に際して自分のこれまでの煩悩や悪業の集積から地獄に堕ちてゆく恐怖だったということがわか

ってきたのだ。何と言うことだ、いやわかっていたことかも知れないが私は心に地獄を抱えていたのだ。

“おん さんまや さとばん” “おん さんまや さとばん”と誰よりも大きな声で唱え続ける。も

う、目隠しをもぎ取ろうとする衝動は消えていた。そしてやっと順番が回ってきた。重ね合わせ、突き出

した両手中指に樒(しきみ)の葉が挟まれる。そして両腕を前に伸ばして曼荼羅の上に花を投げる。目隠

しを外されると目の前に曼荼羅がぬっと現れる。大日如来の上に落ちましたと告げる僧侶の声が聞える。

実際には曼荼羅中央の大日如来へは届いていないはずだが、いつの時代からか便宜的に灌頂に参加する全

ての人が大日如来と縁を結んだことにされるようになったのだという。確か司馬遼太郎の本にそのように

書かれていた。しかし天台宗比叡山では実際に落ちた場所の仏がその人の念持仏とされるようだ。それ

から薄暗い通路を通って阿闍梨が座っている場所に連れて行かれる。そこで頭に少量の水を注がれ、何故

か鏡を見せられる。「大日如来とご縁を結ばれた直後の清らかなお顔です。」ということだが、清らかな

顔にはとても見えなかった。いつ見てもいやな顔だ。法具の金剛杵を握らされる。机の上にはお供えをす

る木製の小さな台が置かれており、千円札が何枚か見えたので一瞬迷ったが止めておく事にした。ありが

とうございました、と言って席を立ち出口へと向かう。出口付近で外を見遣ると木々の緑がまぶしく輝い

て見える。ああ、私は生きている。何とも言えないような気持ちであった。先に終えた人たちは、出口で

渡された結縁灌頂の終了証のようなものを見ながらそれぞれ歓談していた。みな恐らくは普段通りの顔を

していた。私一人が富士山麓の樹海へ迷い込み、死の一歩直前から無事生還したような顔をしていたに違

いない。どうしてだろうか。あなたたちは怖くはなかったのですかと、一人一人に問いただしたくてなら

なかった。帰りのバスの中で、そして南海電車の中で、魂の離脱した腑抜けのようになってひたすら考え

続けた。仏に逢うということは、生きながらにして死ぬということだ。それはわかっている。仏と縁を結

ぶためには死を擬制するイニシエーションが必要なのかも知れない。しかし私は結縁灌頂になど参加しな

くとも既に自分なりの方法で神仏と縁を持っていたではないか。それは仲介する権威が一切ない神(法)

と私の水平的な関係性であったはずだ。もしかすれば曼荼羅というものは一つのシステムではないのか。

そして、そのシステムは序列やヒエラルキーによって統制されているある種の構造体なのかも知れない。

それは人間が人間を支配するために作られた構造体だ。私は曼荼羅の世界に入壇することによって神

(法)との水平的関係が叩き壊され、序列末端の地位に垂直かつ強制的に組み替えられたのだ。たとえ私

が地獄世界の住人であったとしても、その上で神々と水平的な関係性を保っていたのだ。それが壊されて

しまったからこそ、このような脱力感を味わっているに違いない。わかりやすく言えば会社組織の中で部

長であったものが、いきなり理由もなく平社員に降格させられたような屈辱だ。疲れていたせいかも知れ

ないが帰りの南海電車に揺られながら私の妄想はどんどん進んでいく。全ての宗教の本質は、神と人間の

関係性を死や地獄の恐怖によって操作するところにある。戦争に内在する精神的メカニズムと同じだ。個

とは何だ。集団とは何だ。あなたは本当に存在しているのか。山間の中を電車の揺れと共に私の思考は深

く、深く揺れる。結局私は人がすることを、人と同じようにするのは鬼門なのだ。気取って言っているの

ではないぞ。それが自分の身を守ることに繋がるからそうする以外にないのだ。理解などされなくっても

結構だ。馬鹿女め、馬鹿野郎が。ああ、眠たい。私は世界が揺れるほどに眠りたい。深く、深く揺れなが

ら死んでいくように眠りたい。



「才能は市民生活の敵である。」  三島由紀夫