先生の字
息子には週に2~3回、私の実家で勉強を教えている。先日、小学校で使っているらしい国語ノートを持
ってきた。私が選んだ教材でいつものように教え終わった後、息子はそのノートを開いてます目にひらが
な文字を書き込み始めた。
「宿題か」と聞くと「うん」と答えて結構、真面目な態度である。私が教えている時には、ふざけたりだ
れていることが多い。それで意外に感じてノートをよく見ると綺麗なしっかりした赤字で もっと大きく
かきましょう、と書かれてあった。担任先生の字のようだった。私は妻子と別居しており小学校の入学式
に出席していない。息子から担任が女の先生だということだけは聞いているのだが、何歳ぐらいでどんな
人なのかまったくわからない。でもその字を見た瞬間、胸のつかえがすっとおりてゆくような感覚を味わ
った。これは先生の字だと思った。具体的には説明できないけど先生にしか書けない真実の響きが、その
文字には確かにあった。字から子供たちに対する気持ちが伝わってきて、とてもいい先生だと思った。実
際に会って見たい気持ちになった。
それで学校や教育現場の問題について偉そうなことばかり書いている自分が少し恥ずかしくなった。息子
の担任先生が書き込んだ字は、ほとんどの教師たちが真剣に教育に取り組んでいることを何よりも雄弁に
語っているように思えたからだ。ならば、どうして・・・・・・と疑問は尽きないのであるけれども。
私はそれをわかっている。
「わかっちゃいるけど、変われない。」
(植木等風に)
「神よ、私はわかっているのです。あなたが偉大なる方便の力で絶えず私に向かわしめる道を照らされん
ことを。私が川原の小石にも満たない価値無き者であるにも関わらず、あなたが私を愛してくださるのと
同様に私が貧しきもの、小さきものを愛する心を持つ時にあなたは私を黄金の石に変える奇跡の業を示さ
れんことを。だから私の幻想と驕りを打ち砕かんために試練を与え給うな。あなたの御心をより深く知る
ための安らぎを与え給え。」
(アウグスティヌス風に)
今、気付いたことだが私はどこかアウグスティヌスに似ている。私がこの世に生まれた時に、母は私の名
前を等にしようかと迷ったそうだ。しかし植木等が演ずるような人間になるのを恐れて結局、別の名前に
なってしまった。誰も読めないような難しい名前である。しかし私は本当は、アウグスティヌスより植木
等になりたかったのだ。