龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

仕様が無い少年、少女の諦め

この万引き誤認、中学生自殺問題について私がこだわる理由は、もちろん私の息子が中学3年生の同じ年齢であると言うことも大きいのだが、それだけではなくて、今の中学生や高校生世代の感覚と日本の世相や政治性との関連について思うところがあるからである。云わば、時代を的確に象徴している少年の自殺であって、決して目を逸らしてはいけないように感じられてならないのである。具体的に述べれば、その少年は、先生に言ったところで仕様が無いという意味合いのことを生前に言っていたとのことであるが、この「仕様が無い」というフレーズは、私の息子も口癖とまではいかないが、よく口にするものである。どういう心理と意識でそのような言葉を口にしているのか、分かりかねる所もあるが、日常的に多頻度で使用される言葉は、やはりそれなりの社会性を含んでいるのだと考えられる。思考の出発点に諦めがあるというのか、15歳の子供なりの諦観がそこには垣間見られるものである。そしてそれは今の時代の中学生、高校生たち全般に共通した感覚ではないのかと私は考えてしまうのだ。こういう事を言ったところで仕様が無い。本当のことをわかってもらおうとしても仕様がない。しかし本当は仕様が無くは無いのである。万引きをしていないのであれば、きっぱりとしていません、と言い続けなければならない。言い続ければ必ず誰かが手助けしてくれるし、自分の無実は明らかになるのである。それぐらいのことは15歳にもなればわかるはずだ、なぜそうしなかったのかと疑問に思われる人も多いであろうが、私にはその少年の気持ちがわかるような気がするのである。自分の息子を見ていても感じることであるが、現代の少年たちは我々大人よりも、この「仕様がない」という時代意識というか社会感覚の壁が高くて厚いのである。私の中学生時代などと比べれば、はるかに従順で先生の言うこともよく聞くいい子が多いのだが、それはよく躾けられているということではなくて、閉塞的に仕様が無いからとどこか大人びた諦めを無意識に身につけてしまっているのだ。内申書に関しても、中学校の先生が絶対的な権限を持っているのだから、自分の身に覚えのないことであっても、先生がそう言うのであれば仕様が無い、それが世の中全体の決まりごとなのだから不本意であっても従う以外に仕様がない、そういう少年の気持ち、感覚は私には何となくではあるが理解できるものだ。思えばこの「仕様が無い」の感覚は、本来は少年、少女のものではなくて、我々大人世代に特有の悲哀でなければならないものである。子供たちはもっと夢と希望と可能性に満ちていなければならないはずである。ところが時代意識を吸収することに関しては15歳ぐらいの青少年の方が、我々大人よりも実は遥かに鋭敏なのだと見れる。政治に何かを期待しても仕様が無い、投票したところで日本と言う国はこれ以上、変わり様がないので仕様が無い、マスコミは嘘ばかりついているので真実にこだわっても仕様が無い、そういう大人の諦めの感覚が知らず知らずの内に、子供たちの意識に伝播して浸透してしまっているのだ。これは恐ろしいことである。大人であれば、この仕様が無い的な諦観とバランスを取るように、社会を維持するために必要な共同幻想をたとえ虚構であっても育み、守ろうとする成熟もあるし(私にはあまり無いが)、また自らの尊厳を掛けて、または誰かを守るために戦わなければならない時には決然と仕様が無いの意識を捨て去る決意もあり得るが、残念ながら子供たちにはそこまでの知恵や決断力はないのである。誰か第三者に相談すれば道は開けるという選択肢すら子供たちの発想には出てこないのだ。子供の子供たる特徴は、大人に比べて極端に世界が狭いところにあるのだと思われる。先生と親と友達、それが全てなのだろう。そして15歳ぐらいになると私の息子もそうであるが、親にはほとんど何も言わないし、相談も報告もしてこない。こちらから聞いてもはっきりとは言わないし、何を考えているのか正直に言ってわからない部分も多い。全て自分で抱え込んでしまうようなところがある。だから心配なのである。そういう今日的な諦観の感覚と現実の狭間に出来た巨大な裂け目に落ち込むように死んでしまった少年があまりにも可哀そうでならない。その少年は、勉強もよくできて真面目でクラブ活動も熱心に取り組んでいて、ということであるが、そういう生徒なら普通の担任教師の感覚であれば、生徒が事実確認に対して否定するしない以前の問題として、先ず本当にその生徒が万引きをしたのか、何かの間違いではないのかという疑いを持つことが当たり前であると思うのだが、そういう発想が出てこなかった時点で既に教師として失格であるとしか言い様がない。